中国
関東地方に住む私にとって中国地方と言う呼び名に何故変更しないのかという疑問が正直ある、中国という漢字の表記がどうしても馴染めない、隣の国、中国を連想してしまう、実際にその地域に住んでいる方達は中国地方という表記で広島、岡山、山口、鳥取、島根の五つの県が表現される事に違和感は無いのであろうか、余計な事を言って失礼な話であり、実にお節介な事かも知れないが気になるので書いて見た、他意は特に無いがどうもすっきりしない、もう一つすっきりしない表現に。
山陰という表現がある、勿論地域を指す呼び名である、鳥取県、島根県、山口県の日本海側、場合によっては京都北部、兵庫北部が含まれる地域の呼称、しかし、その山陰という漢字の表記に暗いイメージが払拭出来ない、山陰の意味は山の陰という事、陰は、元々中国語で山の北側を指す、そこから山陰という呼び名が来ているそうだが、山陰と呼ばれている地域の方達はどうなのだろうかと、中国地方の中に山陰が含まれている事にも余計にややこしいと勝手に連想してしまう、本当に他意は無いがその呼び名はなんとかならないのかと気になってしまう。
逆になんとかならないと言うのであれば歴史を紐解き堂々と隣の国の呼び名を変更するという代案は如何かと思う『中国地方』という言葉は西暦800年前後の平安時代、当時の政治の中心は京都、加えて、外交の本拠地福岡県に位置する太宰府が大陸朝鮮半島の外交を行う西の中心地、 京都と太宰府という2つの都の中間に位置する5県が『中間の国=中国』と呼ばれるようになっとされる、その経緯を知れば納得出来る、隣の国、中華人民共和国より1000年以上も前から中国という言葉を使用しているのであれば、隣の国を中国と呼ばずに『中民国』とか『中華国』或は『中華』とかの表現で呼べばいいのにと思う、その中国地方の織田家最高指揮官に羽柴秀吉が任命され対毛利家の急先鋒となる。
(最後の一行だけでも良かった文章です、長くて申し訳ありません)
織田信長と毛利家の当主、毛利輝元の間では、三好氏に対する牽制の意味もあり友好関係を保持してきた、将軍義昭が信長に追放され庇護する形となっても正面からの敵対関係には発展しなかった、両者が戦う事を避けていたからである、しかし、その一方で信長は毛利の力を弱める為に大友氏、島津氏ら九州地方の諸大名を講和させ毛利氏の背後に圧力を加えようと画策し、関白左大臣の近衛前久を薩摩、肥後に下向させている、明らかに二重の相反する策を毛利に行っていた。
信長が大友氏、島津氏ら九州地方の諸大名を講和させ背後に圧力を加えよう策を労した事も毛利で証拠を掴むも、正面切って戦うには織田家は大きい家であり困難を伴う戦になると予想出来る事から戦を回避する為に秀吉を窓口として接触を試みていた。
毛利家でも将軍義昭は重荷となっており何度織田家を討伐する文を止めるよう諫言するも将軍の言葉は絶対であり、毛利家が将軍に意見を述べるなど許される事では無いと話にならなかった、先の顕如と信長が戦になる前年に毛利家で間に入り京に戻れるように将軍が戻れる話し合いを秀吉と行っている、その毛利家の外交官、安国寺恵瓊が登場する。
安国寺恵瓊は、臨済宗の僧で、武将および外交僧、法諱の諱は恵瓊、号は一任斎または正慶、一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは
毛利氏に仕える外交僧として秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においても秀吉から知行を貰って大名に取り立てられたとされる。
史実では
この会談に毛利家の使者として安国寺恵瓊が参加した、しかし、追放された義昭があろう事かなんと、信長からの人質を求め、二度と将軍に逆らうなとの要望を変えず交渉は決裂となってしまう、空気の読めない力の無い将軍に恵瓊も憤り、決裂した際に、義昭が西国に来ないよう強く要望して会談は失敗に終わった。
結局時は流れ顕如と信長が又もや戦に発展する、毛利家では兵糧を送る事になる、幸い第一次木津川口海戦では顕如が信長を退かせる事に成功するが、代わりに秀吉が毛利攻略の責任者として襲いかかる、秀吉の武器は調略と言う知恵を使う武器である。
信長は毛利を敵と認定し秀吉に攻略を命じ、本願寺への攻略に織田家本軍と柴田の軍勢を呼び寄せる、三好残党と四国への方面軍責任者に織田信雄とした、ここで三男の信孝が復活する事になる畿内五ヵ国の抑えに、大和国、山城国、河内国、和泉国、摂津国の方面軍責任者に復活した、畿内五ヵ国は既に信長の支配下にあり、主に治安警備が主目的であり、各方面軍への予備的な援軍としての色合いのある方面軍と言える、正月の折りに見せた信孝の心根に感心し復活させた信長。
滝川、丹羽の上位武将も対本願寺への遊撃軍として準備する事に、織田家は明確に本願寺と毛利の二正面作戦に切り替えた。
── 女子会 ──
女子会と言えば何だか楽しそうなイメージを覚えるが戦国期の女子会である、午前は腕に覚えある薙刀の国人当主達の正室による試合が那須烏山の城で行われていた。
この日の女子会は、太郎の母親、三条のお方様、太郎の妻 嶺松院、山内一豊の妻 まつ、明智十兵衛の妻 煕子、半兵衛の妻 百合、佐竹義重の妻
薙刀の演武では天然妻のまつが以外にも捌きが上手く腰の入った一刀を打ち込んでいた、まつに対抗出来る者は梅しかおらず両者一歩も引かずに互角の試合であった。
次に小刀による演武もまつと梅での試合となり、こちらは梅の方が立ち回りが一歩も二歩も速くまつを翻弄していた、薙刀も小刀も全く出来ない女子は嶺松院と十兵衛の妻 煕子であった、嶺松院が得意とするは琴の披露であり、十兵衛の妻 煕子は漬物が得意であった、なにはともあれ男子不在の女子会、日頃の鬱憤が溜まりに溜まった旦那へのストレス発散の日となった、本来の目的は資晴の幼な妻との交流であるが愚痴が出るは出るは、鶴姫は目を丸くして興味津々に楽しんでいた。
最後は鶴姫が琴を披露しお開きとなった、各家の妻たちは烏山城に別棟を持っておりいつでも宿泊出来る、翌日は甘味処に鶴姫を連れて行く事になっていた。
北条家での育った環境と嫁ぎ先の那須家での過ごし方は余りにも違いがあった、大きな違いとは簡単に言えば自由に動けるという事であり、手続きさえ踏めば城下の町にも繰り出せ買い物や甘味処にも行けるという事に驚いた、特に当主の正室、お藤のお
「どうじゃ、鶴よ、この球華プリンは妾が名付けた品である、美味しいであろう、資晴の話では小田原の町は烏山の町より数倍大きいと話しておったが、甘味処だけは何処よりも多く、那須に敵う処はないと申していた、それと最近出来た店に卵屋という時告げ鳥の卵を利用して作られる美味なる店も繁盛しているそうな、今日は土産に頼んでいるので、城に帰ったら資晴と食べるが良い」
「ありがとうございますお方様、私は小田原の城下町を城から見る事しか知りませぬ、一度も町に出して頂けませんでした、那須に来てお方様にこの様に町を散策するなど嬉しくて心が弾んでおります、皆様と美味しい品まで食するなど、嬉しくて涙が出そうです、お方様、皆様ありがとうございます!!」
鶴の話を聞き、城から出た事が無い事に驚く女子会、なんともそれは厳しい生活であったのであろうと幼い鶴を労わった、すると幼少時に似た様な経験をしていた三条のお方より大きな励ましが。
「妾も公家の娘として育ち嫁ぐまで家から外界に出た事はほぼ無かった、公家の娘の多くは嫁ぐまで一度も出ぬのが習わしで嫁ぎ先の外界の事を想像しては色々な夢を描いていた、しかし現実と夢はあまりにもかけ離れており嫁いだ甲斐の国は何も無い所であった、甲斐の国にあるのは寺と神社ばかり、このような甘味処など嫁いだ時はどこにも無かった、今は那須家のお陰で甲斐にも甘味処が何件か出来たそうな、鶴殿はとても良い恵まれた地に嫁いだのじゃ、良い処に来れたのもご先祖様の導きであるぞえ!!」
「三条様の言う通りであります、妾も太郎殿に嫁いだ時に甲斐の国には驚かされました、五日目には夜陰に紛れ逃げ出そうと考えたほどです、今では笑い話になっております!」
明智十兵衛の妻 煕子からは那須資晴の元でお仕え出来る事の幸せをこの地は天と地に恵まれた豊穣の国土だと、美濃での暮らしは余りにも貧しく国人領主であっても日々食べる物に困った暮らしであった、夫十兵衛が苦労している事を知っておりましたので糊口を凌ぐために山菜を取りに野原に出かけ、河川に配下の者と魚を捕りにと、米豊作となっても領主に供出しなければならず、このような甘い菓子など那須に来るまで口にした事はありませんでした、その昔の苦労を思い出し頷く女子会、当主の妻達と言えども妻には妻の苦労と言う下支えの元で家は保たれている事を知る鶴であった。
── カルマ ──
資晴と鶴は夫婦とは言え過ごす部屋は別々であり大名では普通の事であった、共に寝る時も夫側の性欲や気紛れなどで寝屋を共に過ごすなど妻側が夫を待つ状態が普通の時代であった、現代では夫が妻の元に行けば妻が逃げる我が家とは大違いである(笑)
この日の夕餉の後に資晴の様子に異変が生じた、机の上で狸寝入りを始めた資晴、急ぎ床の準備する梅、最初に異変を察知したのは床の準備していた梅である、資晴に床の準備が出来た事を知らせに居室に入るといつもの資晴とは空気が違っていた、似てはいるが姿形は同じであるがそこにいる者は別人の資晴であった。
忍びには変装を得意とする者も多く、一見見ただけでは本物かどうかの区別は素人には出来ない、それ程変装を得意する者は姿形声音を真似る、梅も資晴に変装した者が突如現れたと判断し懐から即座に小刀を出し、襲い掛かろうとした。
警戒し資晴に近づく梅、しかし資晴に似た相手は自分の服をまさぐり顔をいじり、手をバタバタと忙しく動かし何かを探している又は確認している仕草をしていた、そこへ梅が刃を手に近づく、資晴もそれに気づき梅を確認すると、驚愕の顔で梅を見つめ、口を開け身体を固めた。
変装した偽物? なのか? 明らかにいつもの資晴とは違う表情、身に付けている物はさっきまでと同じ物、資晴の匂いも同じ、小刀を見て驚くというより梅を見て驚いている様子、いつでも襲える態勢で確認する梅。
「若様でありますか?」
問いかけに返事なくもう一度聞く。
「若様でありますか?」
「・・・・えっ・・・・・」
中々返事をよこさぬ資晴に梅は忍びとしてくノ一として当然刃を資晴の胸元に後一寸の所まで突き刺しもう一度聞き出す。
「貴様何者、若様はどうした、命惜しければ即答せよ!!」
「わわわ・・若様? 私はよよよ・・洋一です!」
予想もしない返答・・・今度は梅が驚きすっとんきょうな声を上げる。
「よよよ・・洋一・・・洋一とは若様と繋がっている洋一様であるか?」
梅の大声に別室で書き物をしていた明智十兵衛が何事がと心配し急ぎ駆けつけた!!
「如何した梅殿、若様に大事ないか?」
慌てて入る十兵衛に梅も声を震わせ、若様が消えました、このお方は若様ではありませぬ、若様と繋がる洋一様の様ですと、声を震わせなんとか説明する梅、説明を聞くも理解出来ぬ十兵衛、一体何が起きたのであろうか。
カルマとは仏教の用語で業という意味を指すがその業を仏教が広まる以前の古代の宗教でも、同様に業についての教えが存在する、神という教え、仏という教えの大きな違いはあるが業という根柢の部分について似た様な解釈で生命についての教えがある。
カルマという単語を検索するとジャイナ教という古代のインドの宗教がヒットする、釈迦の仏教と同一時期又は仏教との説明もあるが定かではない、その根底に同じ古代宗教のバラモン教のカーストという身分制度がこの業という教えの根幹部分にある、その業を打ち破るために釈迦は出家し解脱する。
宗教哲学の説明はここまでとし、その業とは、その人の命に宿した命を形成している何代にも渡るこれまで積み重ねて来た行為の業が宿り霊魂として培われており転生した現象が今の境涯であり現世の姿とされる、那須資晴は以前刺客に襲われた際に洋一の魂と入れ替わった事が一度だけあった、あの時は資晴が令和の世界で洋一の姿を借り軍師玲子と出会い、一刻の短い時間であったが軍略を授かる場面を経験している。
ここに1576年戦国期の夏に資晴の館に突如資晴の姿で洋一が出現した。
なんか最後にミステリーが、作品がミスになってしまうかも知れませんミステリーが訪れました、なんとか頑張ります。
次章「洋一」になります。
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