蘆名の危機


 戦国期は小氷河と呼ぶ学者も多い、気候が安定しておらず冷夏の多い年が続き、旱魃、大雨等による自然災害に苦しめられていた。




 日本中世気象災害年史からほんの一例をここに記載する。


 1566年2月、陸奥、此年飢饉、人民牛馬死      正法寺  年譜住山記


 1566年2月、天下(前年から)二ケ年間、天下大飢饉、人民多死、牛馬喰

                                 加納年代記


 1566年2月、武蔵、飢饉入、万民死             年代記配合抄


 1566年2月、会津、この年、大悪作、飢饉          異本塔寺長帳


 1566年4月、大和、此比、国中一円、爰元悉三日病、風気はやり、無漏人  

                                多聞院日記1


 1566年4月、肥前、春より雨一滴も降らず、青苗さながら枯渇し、耕しても空地となる。                             北肥戦誌


 1566年7月、天下、霜降、大饉、天下三分一死       享禄以来年代記


 1566年8月、常陸、飢饉                    東州雑記


 1566年9月、武蔵、先月以来、打続大雨故、洪水万方、通路不自由之間、以大軍之動 難成候間延引差行無之候                 北条氏照書状



 下野国は現代の栃木県、最北の山が那須連山になる、那須連山を正面に見て手前が栃木県、後側が福島県になる、戦国時の福島県は大きく分けて蘆名氏の那須山北側から会津一帯、白河結城氏の白河市、岩城氏のいわき市、相馬、二本松、田村等であろう、この1566年代は伊達家が近隣大名としのぎを削る戦を起こしていた。



 伊達政宗はまだ生まれていない、翌年1567年9月に誕生する。




 ── 蘆名の危機 ──



 蘆名氏の領地、那須山北側から会津一帯では前年に続き凶作となっていた、2年連続の凶作、受けるダメージは計り知れないと言えよう、那須とは那須山を堺とし隣地の大名である、蘆名氏の会津の石高は24万国、大国の一角と言っても良い。



 天候に恵まれず凶作になった事により得られる24万国の石高が年17万石となり、2年連続で14万石もの石高が減った事になる、1年だけであれば備蓄と近隣諸国から不足分を購入すれば耐え凌ぐ事は出来る、2年連続となれば備蓄も無く不足分を購入するとしてもその影響は計り知れない事となり、農民を中心とした一揆が起これば、家の存続すら危ぶまれる事態である。



 蘆名家の当主、蘆名盛興もりおき、この時の蘆名家は内憂外患を抱えていた、家督を1561年に父盛氏から受継ぐも、隠居した父盛氏が院政を敷き当主、蘆名盛興が行う政が思うように進まず、酒に溺れ、支える家臣達も揺れ動き不安定であった。



 史実でも酒に溺れた当主盛興を諫める為に造酒禁止が出された程であり、後年身体を酒による酒毒により27才の若さで亡くなっている、その後、婿養子が蘆名家を継ぐも奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗し蘆名家は会津の地から追われ佐竹の元に身を寄せ、蘆名家は滅亡してしまう。



 その蘆名に凶作による飢饉が訪れようとしていた。



 1566年収穫の秋、那須では新しい田植え、サツマイモ、トウモロコシ、大豆等の農作物は予想通り豊かな実りであった、特に太平洋側の常陸では農地の面積に誤りがあり、過少申告による縄伸びがあり予想以上の石高となった。



 その結果、那須家の常陸半国から得られた石高は27万石と言う大量の実りとなり、那須本来の領地(矢祭、塙を含む)の石高13万石、旧白河結城領(棚倉を含む)10万石、旧宇都宮領15万石、旧小山領8万石、その結果1566年度の石高は73万石となった、この数字にはサツマイモなどの農産物、海から得られる塩、海産物、大子の金は含まれていない、勿論干し椎茸は那須資胤と正太郎、鞍馬による独占物でありその売り上げも含まれていない。



 この年、10月中旬に各地で豊穣祭りを例年通り行う事になっている、その準備に追われる中、那須七家の芦野家当主、芦野資泰すけやすより資胤に文が届く。



 文の内容は会津蘆名より凶作の為、米穀物の調達の依頼が来ており、年明け春以降の食料が不足となる為、大量の穀物を欲しいとの内容であった、その要請に対しどの様に対応すれば良いかとの文であった、家と家との関係性もあり勝手に糧食を売る事は厳禁であり、当主に判断を仰ぐ適切な事と言えた。



 蘆名家との関係では、両家で諍いも無く、板室の温泉の地より那須山を越えて会津に通じる道が続いており、温泉宿には商人など行き来する者などが利用していた、資胤は今では芦野家と隣同士となっており正太郎配下の芦野忠義に使者として具体的な量をどの程度必要なのかと農村の実態調査を命じた。



 後日、忠義は数名の配下を引き連れ蘆名家の居城向羽黒山城に向かった、城は1561年に前当主の盛氏が隠居する年に築城が開始され、1568年に完成されている、この城は当時の日本最大級の山城で南北約1.5キロからなる巨大な城、この築城に莫大な費用を要している事も飢饉と併せ問題となっていた。



 向羽黒山城に到着し、広間で謁見した忠義は呆気にとられた、当主蘆名盛興もりおきが広間に来たかと思ったら、挨拶を交わした後に退出してしまい、具体的な話が何も出来なかった、挨拶の際に盛興の顔色悪く、酒の匂いが室内に漂った事で先程までこの昼間から酒を飲んでいたのかと察し呆れた忠義。



 盛興が退出した後に蔵糧米を管理している代官、松本と名乗る者が現れ、申し訳なさそうに必要としている米穀物の説明がなされた、米を含めた穀物の量は1万石程度必要としている、春先までの糧食はあるが秋まで食をつなぐ分が必要であるとの話であった。



 忠義はこれまでに正太郎が行った農政を見ており石高の知識もあり要望された1万石では蘆名家に仕える者達の分しか無いのでは? 農民や町人などの者達にはどの様に手当てを行うのかと聞くも、それはそれぞれで手当を行うであろう、我らが必要としているのは蘆名家に仕えている者達の分であると説明された。



 そこで再度忠義が、お武家の蘆名家が糧食に困るという事は領内の全ての者が困窮する事であり、その者達に手当を怠れば那須に庇護を求め来る者がおるやも知れませぬ、その時はどの様に致しますか? と聞くも領内から他家に庇護を求めるなどもっての外です、その様な者がおれば那須殿のお家で自由に処罰されて結構と驚きの発言を松本と名乗る代官が述べた。



 あ~この代官ではダメだ、このような代官が那須にいたら処罰を受けるであろう、庇護を求めた民では無く真先にこの松本を処罰されると愚かな代官と話してもこれ以上は意味無しと判断し要請された内容を持ち帰り文にて回答すると話し、帰還した。



「御屋形様以上が蘆名家の代官と話した内容になります、如何ご返答致しましょうか?」


「噂は本当のようだのう、昼間から酒を煽るなど、それも助けを求めて置きながら挨拶も碌にせずに更に碌でもない代官を寄こすなど頭の痛い話よ、正太郎如何致す?」


「使者が来るのを判っていながら酒を飲み碌な対応を行わないなど、それが父上であったら私は恥ずかしくて堪りません、きっと蘆名家でもその様に恥ずかしい思いをしている者もおりましょう、他家の事ゆえ口出しは出来ませぬが一計を考えてみます、それと1万石の件を了解したと伝え代金などの詳細の打ち合わせの為にその松本なる代官を呼びつけましょう」



「そうであるな、民の様子は聞いておるか?」



「武家以上に深刻のようです、土倉に金を借りる者が既におり娘を質に入れた者も、米の値も那須の倍近くなっているとの事です」



「2年連続となれば民の方が苦しいであろうな、我らが勝手に売る訳には参らぬし、餓死者も出るであろう、難しい話であるな」



「我らが他家に手を出す事は出来ませぬが商人であればどうなのでしょうか、日頃から日用の品を仕入れた品を他家の領内で売っております、その線であれば多少手を入れる事が出来るのでは無いでしょうか?」



「儂自らその事を指示する訳にはいかぬが、良い案である、上手く茶臼屋と諮ってやって見るが良い」



「解りました、では先ずその松本と話してから手を打って見ます」



 5日後には蘆名家の松本が使者として烏山城に訪れた、資胤は使者の口上を聞き他家の代官である松本に丁寧に話した。



「使者の松本殿、凶作による難儀ご同情致します、当家と蘆名家では特に諍いもなく米等を売る事を了解致しました、ご安心下され、我が領内の商人に確認した所、蘆名家の商人より米の都合を依頼され通常相場の1.5倍程の値にて交渉されていると聞きました、当家では商人が米を他家に売る場合数量の制限を設けております」



「これまでのところ蘆名家と揉めておらぬ故値についても些か配慮する事にしました、詳しい話はこの嫡子正太郎と話を行って下され、政の重要部についての差配も行っております」



「那須様のご配慮当主に代わり心より御礼致します、正太郎様よろしくお願い致します」



「では昼餉を用意しておりますので食してから話を致しましょう」



 一旦お開きとなり昼餉を食する事になった松本だが、その食事の内容に驚いた、鮎の甘露煮、蛤のお吸い物、干し椎茸入りの茶碗蒸し、大学芋と麦菓子まで膳には載せてあった、那須の家は想像以上に豊なのか? 干し椎茸など食したのは何時以来の事か・・・配膳された昼餉に毒気を抜かれた松本。



 昼餉後に打ち合わせとなり正太郎より幾つかの内容が条件として伝えられた。



「では松本殿、米の値ですが、我が領内で売られている値は他家より安価な値で民に渡しております、その値の1.2倍で1万石手配しましょう、1.2倍でも蘆名家で売っている値より安価ではなかろうかと思います、取りあえず3000石の米を7日後に取りに来て下され、恐らく400~500名程荷車と一緒に来られるかと思います、8日後から当家では豊穣祭りとなります、来られた方々も一緒に参加して下され、宿泊する所も用意致します、飲み放題、食い放題の楽しい祭りとなりますので、是非この機会に当家の者と民達と楽しい一時をお過ごし下され」



正太郎はある考えの元豊穣祭りに参加するように言い伝えた。



「それと当家の使者が松本殿と話された際に蘆名家の民達への施しは特に考えておらぬとお聞きしましたが、当家は蘆名家とは那須山を挟み隣同士であり、その昔より農民などは蘆名領内の農民が嫁に来たり、こちらからも嫁に行くなど民達の交流がある様です、そこで那須の商人が米等を売り行く際に関税は取らないで頂きたい、期間を限定しても良いので多くの民に売る様にしたいと考えております、それと蘆名家の領内から庇護を求めて来た者達には当家でどうするかを差配致しますのでその点当主のお墨付きを下さい」



「これらの事は後々問題を引き起こさぬよう手配する物です、松本殿よろしく願います」



先程の昼餉といい、豊穣祭りの話、米の値を聞く内に何故隣の那須はこれ程豊かなのであろうか、どうして蘆名領とこんなにも違いがあるのかと驚き聞くのであった。



「正太郎様のお話し大変ありがたく感謝致します、当主のお墨付きの件も含めて当家に取って大変にありがたい話で御座いますが、一つお聞きして宜しいでしょうか?」



「どの様な事でも構いませんよ」



「お話を聞く限りありがたいのですが、何故そこまでこの様に手厚くして頂けるのでしょうか? 戦国の世はどこも他家の力を弱め、大きくなろうとしております、那須のお家では蘆名家にその様なお考えは無かったのでしょうか?」



「松本殿、某はこの冬で10才になる小さき者です、しかし、那須の嫡子であり那須の祖である与一様の教えと父上が行う政を学んでおります、松本殿の言われる通り戦国の世ではありますが、人としての矜持を忘れた行いこそ当家では一番の恥となります、凶作に難儀し困っているからと言って、それに付け込み他家の力を弱めるなど、あってはならぬのです、これで宜しいでしょうか?」



「ご教授ありがとうございました、もう一つ教えて頂きたい、那須の家では何故その様に大量の糧食をお持ちなのでしょうか?」



「それはここ数年水路を引くなど灌漑を行い田畑を増やしたからです、しかし、那須は農民の数が不足しており、収穫が増えても食する人の数が足りずに、米余りがあったので備蓄しただけです、増える分には困りませんので、助かっております、あっはははは」



 正太郎の話を一通り聞き帰路に就く松本であったが、蘆名家とは全く違う、この様な国があったのか、ここ数年で一気に大国となった那須の主因はあの正太郎と言う嫡子ではないのか、この冬で10才になると申していた、その余りにも若き嫡子から人としての矜持について諭された事に己の愚かさに恥じ入る松本であった。





取りあえず正太郎は穏やかに話を進めたようですね、腹の中は読めませんが。

尚、作中の仙台という地名は1601年伊達政宗が青葉城築城により千代という地名から仙台になつたようです、仙台市の由来で紹介されています。

次章「豊穣祭りと新兵器」になります。

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