産まれながらの善


「父上御身体の様子如何で御座いますか?」



「今はそれ程苦にはならぬ、あの公家殿の医療は全く以て関心するばかりじゃ、なんとか介添えがおれば大丈夫じゃ」



「それはよう御座いました、酒は控える様に言われておりますがこのみりんであれば良いと聞きましたのでお持ちしました、夕餉の折にでも試されて下され」



「不思議な物よあれ程酒を飲んでいたのに今は一滴も飲んでおらん、みりんとは酒なのか?」



「酒を造る過程で出来る物だそうで甘味があり疲れている時に飲むなど料理の隠し味に使うと聞きました、公家殿から身体には害が無いとの話でした」



「そうかでは夕餉の時に試してみるとしよう、それにしてもお主の顔も穏やかになったのう、儂も那須に来てより戦の事は忘れてしまった、今は海風より山風の方が心地よい、常陸も良い国であったが那須も良い国であるな」



「最近某もあの戦は何だったのか、どうして戦の事ばかり考えていたのか、今では心が軽くなり申した、仕えていた者達も主家が那須に代わり、戦が無くなった事で諍い《いさかい》も減り、平穏な暮らしが出来ておるようです、負けた事は悔しい事でありますが、戦が無くなったと言う事は心が穏やかになれるのですね」



「儂の代で些かでも家を大きくし、義重がさらに佐竹を大きく出来ると考えていた、那須に来てより何の為に大きくするのか、何故大きくしなくてはならぬのかを考えたが、答えは出なかった、最近では大きくする必要が無かったのでは無いかとさえ考えてしまう」



「小田が安房の里見と誼を結び、常陸、上総、下総全てで小田が盟主となり、争いが無くなったようです、北条も安房と下総から手を引き関東の地から争いが消えていると聞きました、その中心にいるのが那須だと皆々が言っております、この半年で世の中が変わってしまいました」



「儂も驚いでおる、しかし、ここ数年に起きた事を考えれば、時の流れがそのように仕向けておるので無いかと思うておる、儂は間もなく今生とは別れる事になると思うが、だからこそ判る事があるのよ、見える物があるのよ、佐竹は長年戦を続けてきたが、今はそれが終わり次の大きな流れの中にいるのだという事が、那須と小田と北条によって関東から争いが消えたが、それ以外の奥州、西国、九州ではより熾烈な争いを行っておる」



「よいか義重、この関東の治まった地と何れ大きい何者かとの争いが起きる、其方は紛れもなく優れた武将である、那須殿が儂と其方の命を救った意味はお主がこの関東に必要な武将であると判断したからじゃ、戦国武将として其方は一国以上の力ある者ぞ、必ず其方の力が必要になる時が来る、その時の為に力を付けるのじゃ」



「ありがとうございます、父上、某、父上の後を継ぎ佐竹を守る事は出来ませなんだが、それよりも大きい関東の地を守ります、そこで某、嫡子である正太郎殿へ臣従したく決意しております、家を守れず不甲斐ないこの義重をどうかお許し下さい、那須正太郎殿に臣従する事をお許し下さい」



「良い判断だ、一国の当主であったお主を卑下する者がおるかも知れん、そんな事は一刻の事よ、それより正太郎殿の配下となり名を揚げる事が佐竹が正しい道を歩んでいるという証左になる、正太郎殿も必ずや其方を大事に扱う筈じゃ、儂の事は何も考えるな、お主が決めた道を歩むのだ」



戦に敗れ本来であれば当主の責任として腹を切る佐竹親子であったが、那須にて佐竹親子を引き取り養っていた、佐竹義重の才は武将して類まれなる才があり、正太郎の客将として遇していた、父義昭は重い病を抱えており、先の戦時に重篤となり参加出来無い状況であった、正太郎は錦小路を遣わせ出来る限りの医療を施し、小康状態まで回復するも腸内部に瘤がありこれ以上の治療は出来ないとの事であった。



痛みを和らげ安生する以外方法は無かった、この事は義重にも知らせており、残り少ない時間を過ごすようにさせたのである。



「では父上某の覚悟を正太郎殿に伝え新しい道を歩みます、又参りますので心安らかに養生願います」





── 諏訪勝頼 ──



「父上本当に某で宜しいのでしょうか?」



「その事はお主が決める事では無い、儂の言う事に従えば良いのだ、太郎のように処断されたいか、儂に逆らえばお主であろうと容赦は致さぬ、黙って従えば良いのじゃ」



「はい、この勝頼父上の仰せに従って参ります」




「それで良い、下がってよいぞ」



一体父上と兄上に何が起きたのであろう、兄上は庶流の某にいつも優しく接してくれていた、武田本家の重臣共は某を見ても頭を下げる事はしなかった、あの折り、その姿を見た兄上は何れ儂が其方を守る安心して諏訪の地を治めるのだ、お主と儂は兄弟ぞ、兄が弟を守るのは当然の事である、何れ我らが甲斐と諏訪を治める時が来る、その時は儂を支えてくれと話していた兄上に何が起きたのであろうか、本当に謀反を起こしたのであろうか?



私を支える諏訪の者達は武田本家の者達から軽く見られておりさぞ悔しい思いをしているであろう、その私が何れ武田本家を継ぐように父上から先程言われたが、本家の者達は私に従うのであろうか?



兄上に会って某の存念を聞いて頂きたい・・・・・



諏訪勝頼、この時20才の若者である、後の武田勝頼であり、1582年に織田信長、徳川家康に攻められ天目山にて自害する武田家最後の当主、武田勝頼を戦好きの愚将と評する歴史家も多い、反面内政について評価する歴史家もいる。



史実1573年、父信玄が亡くなり当主に、この1573年時点の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している、信玄が亡くなった時に武田家と敵対している勢力は、上杉謙信、織田信長、徳川家康であり、熾烈な戦いが繰り返されている、勝頼に戦を回避する選択肢は無かったと言える。



武田家衰亡の契機となる、1575年6月29日、有名な長篠の合戦が起こる、天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐり、3万8千の織田・徳川連合軍、1万5千の武田勝頼の軍勢と戦った合戦、一説では織田信長が鉄砲3000丁を用意、馬防柵を巧みに用い武田の騎馬隊の侵入を防ぎ10000人以上という、戦史上多くの犠牲者を出し敗北をした武田勝頼。



父信玄が敷き延べた戦の数々、抗う事も出来ず、見方を変えれば勝頼も信玄の犠牲者であったのかも知れない。



ただ史実と違い那須正太郎の活躍により那須家が大きくなった今、武田勝頼が歩む道は違う可能性もある、どのような道を辿るのか作者にも不明であり、何れ明らかになるであろうとしか言えない。




── 不思議な手紙 ──



「父上、油屋から変わった文が届きました、西国九州にも那須を名乗る者達がおるようだと書かれております、油屋の商船が博多の商人と商いをした際に名を那須という名の者でおったと、詳しい話を聞こうとしたが話を逸らされ聞く事が出来なかったと、ただその者が言うには那須という名の家々が西国九州の何処かにおるようであると」



「うむー、今まで考えた事は無かったが、祖の与一様は、源平の合戦を終え活躍した恩賞として五ヵ所程の領地を頂いておるはずじゃ、頂いた領地を管理する為に配下の者を遣わしたと思うが、その後の事は儂も知らぬ、数百年という時を経ており既に那須の我らとは血が薄まり名だけが残っておるのかもしれんな」



「与一様が頂いた恩賞ですか、でも名を那須と名乗っているのであれば、この下野の那須が大国となった話は何れその西国の那須達に届くのでないですか?」



「確かにそうであるな、西国九州の地は戦乱で荒れていると聞く、我らの名を聞き、頼って来れば良いが、同じ那須という名であればこの地なれば安心して暮らせる、油屋に会う機会があれば我らの考えを伝えて頂こう」



「それが良いで御座います、西国九州の事情は何も知りませぬ、知る機会ともなりましょう、与一様が築かれた御活躍が今も生きているのですね、感じ入る物があります、他に油屋から年明けに奴隷から逃げて来た者達1000名程送ると書かれております、まだまだ多くの者がおるとのこ事です、某の方で受け入れますのでご承知下さい」



「それにしても許せぬ話であるな、南蛮の宗教に改宗しない者を奴隷として南蛮人の者に売り渡している者がいるなど、日ノ本の民を勝手に奴隷として売り渡すなど朝廷はご存じないのであろうか?」



「将軍が殺される戦国です、朝廷には防ぐ術も無いのかと、我らの領国は広いですが、人が少くくなくて困ります、米の石高が増え食べ物に困らなくなりましたが、米余りが起きて居ます、まさか米が余る時が来るとは思いませんでした、七家からは米を早く銭に変えてくれとせがまれております、油屋からまだ銭が届かず、手元の銭を渡して凌いでおりますが、そろそろ銭が底を尽きます」



「儂も言っておらなんだが、手元の銭が底を尽き、茶臼屋から銭を借りてしまった、代わりに米を持って行けと申したら、断られてしまった、米だけ沢山あって、まさか政が滞る事など予想もしなかったは」



「良い機会ゆえ正太郎に教えておく、我ら那須は数得きれぬ程の戦を行って来た、だが、只の一度も富む為に略奪し乱取りを目的とした戦はしておらぬ、これは与一様の教えであり代々のご先祖様の誇りなのだ、欲の為に戦を起こし、略奪を行い、農民が作った作物を乱取し、時には婦女子を浚い凌辱し売り飛ばす事を平然と行う者がいる」



「その行為を行う者も悪であるが、それを止めもせずあろう事に奨励して悪行を指示する者が一番の悪者である、那須では絶対にそのような悪行を認めてはならぬ」



「はい、日頃より父が己の行動に責任を持て、その行動が正しければ人は付いて来るという事ですね、肝に銘じおきます、父上、その悪行を行う者達は、その行いが悪い事だと気づかぬのでしょうか?」



「いや、最初は判っていたと思うが、上からの指示に従い悪行を行っている内に分別が付かなくなり、抜け出せぬ事になり、いつしか悪行を正しい事だと自分に言い聞かせ染まってしまったと思う、最初は誰もが母親から生まれ慈しみ育てられ童の心が育つが、大人となり戦場に送られ悪に染まるうちに、童の時に育った心が殺されてしまうのよ」



「では人とは、母から生まれた時は『生れながらの善』なのですね」



「そうだ、人は『生まれながらの善』であり、そうでなければならぬ、獣であっても母親から生まれた赤子を母親は守りそだてるのじゃ、まして我らは人である、世が戦国であろうとその考えを変えてはならぬ、この父と母もお主を『生まれながらの善』として慈しみ育てたのじゃ」



「人の心が悪に染まるは、その者の上に立つ者の責任であり務めじゃ、政の基本も領民が悪に染まらぬように差配し行うのじゃ、悪行を行った者にも罰は必要であるが出来るだけ更生させる事も大切な事じゃ、正太郎が行っている奴隷から逃げて来る者達を受け入れるという事は単に人が足りぬという事では無い、それは二の次じゃ、肝心な事は見て見ぬ振りをすれば己も同罪なのだ、悪を見て放置するは悪行を行っている者と同じ事である!」



「ありがとうございます」



この時の語らいは正太郎によって進む道の大いなる羅針となる語らいであった。




ここにこんな資料がある。


天正十年1582年二月、天正遣欧少年使節がイエズス会巡察使ヴァリニャーノに率いられてローマへと旅立った、使節の主席正使伊藤マンショ、正使千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、副使原マルチノである、彼らは10代の少年使節団、派遣した大名は九州のキリシタン大名・大友義鎮宗麟・大村純忠・有馬晴信である。



少年使節団の見聞した日本人の奴隷について記載されている報告がある、記載の内容は創作ではないかという評価もある。



その内容とは、このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語とを同じうする同国人をさながら家畜か駄獣(馬ロバ牛等)かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった、実際わが民族のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫さらって行かれて売り捌さばかれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫れんびんの情を催さない者があろうか、少年使節団を派遣したキリシタン大名が戦費調達のために多くの日本人を奴隷として売りさばき、その実態を少年使節団が知り嘆くという皮肉な報告である。




キリシタン大名で奴隷売買をより多く行った者として大友義鎮宗麟の名が常に付きまとう。




豊臣秀吉が行った善政の一つに人身売買禁止令がある。


一、大唐・南蛮・高麗へ日本仁(人)を売り遣わし候事、曲事くせごと(たるべき事)、付けたり、日本において(は)人の売り買い停止の事。


伴天連追放令十一条の第十条に書かれている内容である。




秀吉の出自は民であり百姓である、その自分の出自である民百姓を奴隷として売買するなど許せない事であり伴天連の追放まで行ったと理解出来る。




後に秀吉から徳川幕府になるがここでも人身売買について改めて発令された。


大坂夏の陣の翌年、元和二年1616年十月に、江戸幕府は次の人身売買禁止令を発した。




一、人の売買の事、一円停止たり、もし売買濫みだりの輩は、売損・買損の上、売らるる者は、その身の心にまかすべし、ならびに勾引かどわかし売りにつきては、売主は成敗、うらるる者は本主(人)へ返すべき事。



厳しい内容の違反には死罪であったとされる。



日本には奴隷という売買の市場が無かった、奴隷制度が無かったと言われる所以が秀吉と徳川幕府が明確に禁止した事による功績が大と言えるのではないだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る