羽柴と柴田
この年5月に那須資晴の結婚式が開催される中、織田家では異変が起きていた、そのきっかけは織田家で行われた正月の重臣達家老との謁見時に於ける席次に大きい変化が見て取れた、重臣家老達が広間に通され、案内役に指示された席次の上座最前列に左右に別れて座る位置の左側に羽柴秀吉の座る位置が示されていた、対する正面右側に柴田勝家の座る位置、こちらも初めての最前列であった。
この座る位置こそ織田家においての配下の席次であり誰が一番上なのか、自分の位置が何番目なのかを知る席次である、昨年までは上座の中心には信長、その左右に信忠、信雄、信孝が上座側に、その横には上座側に信長を長年支えて来た、林佐渡と佐久間信盛がご意見番として勝手に座っており、信長はその事も苦々しく思っていた、しかし、佐久間を追放した事で林佐渡を閉職に追いやり、密かに林も放逐していた。
織田信長の生涯を考えた時に尾張を統一するまでが前半、統一した後が後半という、前半部分の尾張統一は分家の織田家が一族を蹴散らし呑み込み親の信秀から信長が尾張を統一するまでの波乱万丈部分が前半と言える、それを支えた三人の家老がいる。
信長は18才で父の信秀が亡くなり織田家を継ぐが、この時点では信長を支持する重臣達は少なく、弟の信行を支持する勢力がお家騒動で信長を亡き者にと策動していた、その事を見破り弟を逆に返討にて殺し当主の座に就いた、その間信長を支えた功労者の一人傅役の平手政秀は信長の奇行を諫める為に自らの命を絶ち諫言した。
そして同じく傅役として林も信長を支えた功労者であった、傅役の役目は父親に代わり立派な武将に何れは父親の後を継げるように厳しい仮親として時には師匠として育てる責任職である、その傅役であった林を閉職に追いやり、放逐していたのだ、そして信長を最初から支持していた家老の佐久間は既に追放されている、明らかに信長の意図による采配であり、今現在役立たぬ者は織田家に不要との暗示であり、この正月の席次は織田家に功ある者は誰であれ出世出来ると言う事を公言した正月の席次であった。
秀吉は加賀大戦で柴田勝家と内輪揉めとなり、指揮を乱した罪で蟄居していたが、北条小田那須の三家連合艦隊に京都を制圧され、実質敗北した、その際に秀吉はいち早く信長の危機を知り救うべく朝廷を動かし、上杉家と和睦を図り、上杉家もこれよりは信長に協力し日ノ本の政を支えるとの言質を得、最良の形で和睦となった功を認め秀吉に上位者としての地位を与えた、その表れが正月の席次であった。
それともう一つ大きな出来事がこの席次で起きていた、信長を初め、信忠、信雄の兄弟も驚く事が起きていた、その理由は織田信孝が秀吉の席次の次に勝手に座ったのである、信長側の親族側ではなく、それも秀吉の下の席次に自ら静かに座っていた。
配下一同が広間に座している中、信長は上座戸口より広間に入り拝謁する、平伏する配下の者達を見届ける、配下側に息子の信孝がいる事に驚き、上座側にいる信忠に目で合図を送るも、信忠も困惑しており信孝の意思で秀吉の下に座っていると理解した。
正月の挨拶を終え、信長は信孝に問いただした。
「信孝よ、お主は儂の息子ではあり信忠を支える弟である、何故自らその場に座った、お主の心情を話すが良い!! これは咎めているのではない、その心根を知りたいのだ!!」
「父上、ありがとうございます、私は此れまでに父上の後ろに隠れ、父上の威光の元、息である事に胡坐をかき勝手なる解釈にて戦で大敗し、父上の温かい折檻を受け、秀吉殿の元で武将に必要な心得、覚悟を今学んでいる処であります、父上の政にお役に立てるよう日々精進している処であります、今少しこの席次にて秀吉殿の元で忠臣の心を学びたくこの場が相応しいと考え座りまして御座います、必ずや父上のおります上座に戻れるよう精進致しますので、兄上様もどうかお待ち下さい!!」
信孝は顕如との戦いで勝手に退いた事で大敗し、信長より殺される寸前まで制裁を受け片目を失っていた、その後、秀吉の元で看病を受け、預かりとなっていた、信孝の顔は変形しており以前の面影は性格までも変えていた、信孝の話す内容に満足した信長は。
「良くぞ申した、片目を無くし些か不憫であろうが、片目の代わりにお主の心根が新しく芽生えた事を父は嬉しく思う、信忠、信雄、二人も信孝を見習うのじゃ、秀吉よ、良くぞ信孝をここまで育てた、褒めてつかわす!!」
この正月での席次の異変はその後の織田家の運命を大きく変えて行く事になる、秀吉が柴田の次の地位を信長が認めた事で、柴田も今までの百姓あがりの秀吉という馬鹿にした態度で接する事は出来なくなった、しかし、柴田の心情は地位が上がった秀吉を認めた訳では無い、地位が上がった事で秀吉を警戒する事になった。
そして資晴が結婚式を行っている最中織田家は戦に突入した、敵は一向宗の顕如である、浅井朝倉が滅亡し、頼みの武田信玄も亡くなった、上杉謙信は織田と和睦した事で織田包囲網が瓦解したかに見えたが、足利義昭を庇護している毛利が顕如に兵糧1万石という途方もない支援を行い顕如は5万の死兵を本願寺に集め信長と戦を行う事になった。
世に言う石山合戦の始まりである、前年までは形式的に朝廷の意向もあり信長とは和議が結ばれているが、お互いが様子見の互いを騙す和議であり、信長も本願寺に対し米止めを行っていた、勝手に本願寺に米を売ってはならぬという兵糧攻めを行っていたのだ。
兵糧が思う様に集まらずに京周辺の一向宗門徒を本願寺に集める事が出来ずにいた顕如、そこで義昭に再三兵糧を手配する様に密使を送り、義昭が毛利を動かす事に成功し兵糧1万石を買い付け本願寺に毛利水軍を使い届けたのである、この兵糧こそ那須資晴が結婚費用を捻出する為に那須家が相場の2.5倍で売りつけた古米であった、那須が米を売った事で顕如は開戦に踏み切るのである、戦の契機となる原因を作った張本人は那須資晴であると言えるかも知れない、その資晴は鶴姫を伴って満面の笑みで烏山城下の町を盛大なお披露目を行っていた。
── 縁日 ──
縁日とは元々仏教の教えの中で縁を結ぶ結縁という流れから慶事の日に開催されるようである、ただこの時代の戦国期では何をどう持って縁日と言うのかしっかりした意味は浸透されていない様である、歴史的には屋台売りとも関係が深く、屋台が発展する歴史に縁日は欠かせない風物と言える、神社仏閣の祝いの関連した日に行われる縁日、今では年間を通して開かれているような賑わいの場所もある。
那須烏山城は現在の那須烏山市の中心地から見て正面左側に小高い山、標高約208mの山に築かれた山城であり、戦国期に戦で一度も落城しておらず、数々の戦を退けて来た不落の城である、その理由は城を正面に見た場合、左手側に那珂川が流れており、川幅も広く天然の堀として那珂川を徒過しての城攻めは無理と言える、正面左側にも江川という河川が堀の役目を担っている、後は山、左右に河川という地形が城を守り、城下の町も城を正面に右側の那珂川に沿って町が形成されていた、町はあみだクジ様に縦長の城下町として発展していた。
烏山の城下町は幅1キロ~2キロ、長さ2キロの長方の楕円となっておりその中を幾筋もの道が整備されていた、北側から那珂川の水が引き込まれ、町内に水路が流れ生活排水が上手く南側に流れやがて江川に排出される仕組みとなっていた、これは半兵衛が砂利を使い道普請をする中で町が発展出来る様に工夫を凝らしたお陰である、大雨が降っても被害が軽減出来るように工夫されていた。
城下の町は年々広がっており、農家の子供が年季奉公で働く者も多く人手不足を補いいかにも若い城下という賑わいであった、その城下に巫女48が鈴の音を響かせ舞う中、当主夫妻が現れ大きい拍手と歓声、おめでとうございますという声が前方より聞こえる、当事者の資晴と鶴姫が登場するとその声はより一層大きくなった。
手を振り、扇子で領民に応える資晴、その横で恥ずかしそうに手を振り領民一人一人を確認するように頷き目を潤わせる鶴姫、二人を見ようとどんどん集まる領民、警備の者達も近づけさせない様に押し返す中、旗小屋の二階から二人に花が舞い始めた、気を利かせた旅籠の女将が丁稚の小僧達に菜の花を摘みに行かせ花を二人に向け祝福したのである。
鶴姫の後ろには梅が駒の手綱を握り鶴姫と一緒に手を振り応えていた、旅籠から花が舞う中、何故か梅は泣いていた、梅が泣く事で鶴姫も感極まり共に涙し領民に、大きい祝福の声援に応えていた、資晴も扇子で手を振るだけでは我慢出来なくなり、馬の背に立ち上がり身振り手振りで応えた、資晴は洋一から伝授を受けた、朧ムーンウォークと
資晴達が過ぎ去れば、管領家、北条家、小田家とさらに各地の領主達が一堂に列をなして通り過ぎて行く、当主を見る事だけでも中々無い事であり、まして管領家、同盟先の北条家、小田家の当主達まで拝める事に領民達は何時しか万歳! 万歳!と町中が一斉に万歳が津波の様に連呼し響き渡った、領民への感謝の慰撫ではあったが生涯忘れる事の無い日となった、鶴姫もこの日の事を絶対に忘れないであろうと心に留めた。
その夜は又も城内での宴となった、本来はこの夜は休息の日であった、明日の五日目は、来賓として来た家々に感謝を込めて猿楽の能を開き歓待する事になっていたが、昼間の縁日における興奮が冷めず結局宴となってしまった。
奥方衆はお藤のお方を中心に奥方衆だけで甘い物を頂き楽しい歓談が行われた、もちろん鶴姫と梅も参加している、茶碗蒸し、那須プリン、珠華プリン、蜜のカステラ、スフレケーキ、大学芋、高級麦菓子と、さらに最近人気となったドラ焼きまで、那須は甘味処の王国、どの家より甘味処は充実している、砂糖とぺトニの甘い樹液が使い放題の国である、ここまで色々な菓子がある事を聞いていなかった鶴姫は全て一通り食べきった、隣で梅ももちろん食べきっていた。
那須家には飯之介という菓子ご意見番という巨匠がいるのだ、間もなく、ドラ焼きに続き『たいや焼き』がお披露目される那須であった。
無事に何事もなく結婚式が終わる様ですね、しかし、結局五日間もやるとは、毛利にもう一万石兵糧を売りつけないと、それも今度は3倍で。
次章「毛利家」になります。
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