1568年
三家と今後の戦略について目標が明確になり三家で500万国を目指す事になった、幻庵は小田原に帰らず板室温泉に若い侍女を引き連れ湯治に。
「和田殿どうであろうか、小田家で忍びを抱えたいと相談を受けたが伝はあるかのう?」
「私は忍びの世界から離れておりますので甥の和田惟忠にその旨を伝えあたるようにしてみます、六角の家が不安定となり甲賀の者達も先行き不安かと思われます、特に小さい家では困っておりましょう」
「若様から小田家で忍びを雇いたいと相談を受けたが心当たりはあるか?」
「それなら我らと同じ南山六家に大原家という家がありその庶流にあたる篠山という家があります、庶流という事で銭雇いで危険な役目廻りしておりましたが、六角があのようになっておりますので今は主家とも離れております、その家であれば同じ南山六家の仲ですので話は通じるかと思われます」
「小田家も那須と同様領地が広くなり何かと情報を得る方法を思案していたようじゃ、同じく侍の身分にて禄を得れる、良い話かと思われる、その方から篠山の家に打診して欲しい」
「心得ました」
「間もなく新しい年を迎えますね、今年は良い年でありました、和田衆も皆喜んでおり、甲賀に残った者達にも銭と土産を渡せて安堵しております、これも叔父上が誘って頂けたお陰で御座います」
「儂は何もしておらん、寧ろ儂の顔が立ち鼻高々よ、お主達に感謝しておる」
12月下旬に烏山城に呼んでもいない金無心の男が勝手に訪れた、その男とは公家の『山科言継』であった。
「山科様如何なされました、先触が来たのが数日前で御座います、何も準備が出来ておりませぬが宜しいでしょうか?」
「済まぬ、本当に申し訳ない、急遽急ぎの勅命でまかり越したでおじゃる」
「用件は当てにしておった銭が入らなくなり朝廷が年を越せぬのじゃ、恥ずかしい話であるが無心に来たのじゃ、朝廷を助けて欲しいでおじゃる」
「まあー山科様からの先触で薄々分かってはおりましたが、はっきり言われるとは、余程困窮しているのですね」
「そうなのじゃ、あの信長が調子のいい事を言うから銭をお願いしたら上京した後に考えるとふざけた事を言い出しこんな事になったのでおじゃる」
「信長殿が銭を出す約束を破ったのですか?」
「直接破ったという訳では無いが、困り事ありましたら信長が相談に乗りますという物だから当てにしていたのでおじゃる」
「何が上京したらじゃ、六角も三好も足利なども役立たずじゃ、帝を支えるという事を考えておらん、そのくせ官位だけは強請る、官位が欲しければ銭を出せじゃ!」
「まあまあー今宵は珍しい物がありますので夕餉でお怒りを鎮めて下され、帰りは小田家と北条家にもお寄り下さい、某が一筆書きます、なんとか年は超えられるでしょう」
「やはり頼りになるは那須殿じゃ、もっと京に近くにおればどんなに良いか、京周辺には悪鬼しかおらん、魔の巣窟よ」
山科言継は官位は正二位・権大納言・贈従一位であり、各大名とも関係が深く顔が広い、戦国期の歴史物語で多く登場する人物の一人である、困窮する朝廷を支える為に銭を集めた功労者。
「ほう此れはなんであるか?」
「正太郎説明して差し上げなさい」
「はい、それは海魚のアジを溶き卵に漬け麦の挽粉をまぶし油で揚げた物になります、その横にある物も猪の肉を同じく揚げた物になります」
「さくさくして美味しいでおじゃる、熱いが美味しいでおじゃる」
「これは確か茶碗蒸しであったな、これは干した椎茸が入っており実に良い味でおじゃる」
「この重箱に入った香ばしい匂いはなんでごじゃるか?」
「そちらはまず食されてから当てて見て下さいまし」
「よしでは見事当てて見ようぞ」
「これは美味しい、身が柔らかく食欲がそそられる食べ物じゃ、肉では無いな、何かの魚かと思うがなんであろうかのう」
「はい川にいます鰻で御座います、蒸して甘いたまり液をつけ焼きました」
「あの鰻か、誰も食に合わずと言われている鰻であるか、素晴らしく美味しいでごじゃる」
「はい、そのように工夫すれば美味しく頂けるのです、城下町では人気の食になっております」
「いや実に見事だ、京は薄味で食がそそられぬ、那須で食する物の方が余程美味いでごじゃる」
「最後に母上が名付けた『那須プリン』で御座います、茶碗蒸しとほぼ同じ工程で作ります」
「ほう『那須プリン』とな、甘い香りが致す、どれどれ・・・・これはもう言葉が出ぬ・・・なんという美味しさでごじゃるか、この美味しさだけで天下を取れる逸品ぞ、見事でごじゃる」
「嫡子殿お見事である、感銘した帝が食したら新たな官位を作り授ける程の美味であった」
「お褒め頂きありがとうございます、最後に紅茶をご用意致します、新たに作りましたお茶となります」
「これまたいい香りでおじゃる、いい香りじゃ、ふーふー・・・♪ 心が弾み実に爽やかなお茶である」
「このお茶を些か頂けないかのう、是非帝に飲ませたい」
「はい、それほどありませぬがご用意致します」
突如やって来た山科は銭100貫を各三家から計300貫を収奪し都に急ぎ帰還した。
「父上、来年も山科殿が来ますでしょうか?」
「(笑)儂にも判らんが命の恩人でもあるゆえ、当家で出来る事はお応えいたそう」
「凄いお人ですね、あの方がおらねば朝廷はどうなっておりますやら」
史実1657年11月9日に正親町天皇が信長を古今無双の名将と褒め称え、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めた、しかし信長は丁重にまずもって心得存じ候(考えておきます)と返答したのみだったとされる、結局銭は出さなかった。
── 1568年正月 ──
1568年正月早朝から烏山城正門前には多くの者達が列をなしていた、那須七家の者達は数日前から受け入れ態勢を整え、役割を確認し大国那須家の正月を迎えた。
広間では上座に当主資胤、横に正太郎と弟竹太郎ほか親族衆が左右に控え、そこへ、近隣諸大名の使者及び国人領主が次から次と新年の挨拶に訪れ、返礼のお礼を述べる資胤、その横で首を上下に振りまくる正太郎達、二日間も朝から挨拶を受けまくり首を痛める程の盛況、初日の夕餉では七家と大名の使者達が参加した祝いの宴も行われた、正太郎も参加していた。
二日間を無事に乗り越え、今度は七家の各家で同じ様に正月の挨拶が行われるのであった、半兵衛は芦野家で親族衆として五日までは雁字搦めのスケジュールとなる。
やっと家族水入らずで正月を祝えるのが六日と七日であり、15日までは特に予定は入れておらずそれぞれが長期休暇となった。
── 足利義昭 ──
1568年この年より足利義昭が表舞台に登場したと言ってよい、天文6
千歳丸が3才の時、父の義晴は南都の興福寺一乗院に入れる契約を行い、兄に嗣子である義輝がおり、跡目争いを避けるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従った。
千歳丸は伯父・近衛稙家の猶子となり、興福寺の一乗院に入室し法名を覚慶と名乗り、覚慶は近衛家の人間として、一乗院門跡を継ぐ修行を行った。
猶子ゆうしは、実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子であり、身分や家格の高い仮親の子に位置付く事で地位を上げ、同族内他氏族との結束強化のために行われる、官位の昇進や上の家柄の相手との婚姻を容易にしたり、親子関係を結ぶことで両者一族の融和や統制強化の目的で結ばれた、日本では平安期の貴族社会で見られた。
養子と猶子の違いは家督や財産などの相続・継承を目的としない点で養子と異なっており、子の姓は変わらず、仮親が一種の後見人としての役割を果たすなど、養子と比べて単純かつ緩やかで自由度の高い仕組みであった。
その覚慶は一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進、二十数年を興福寺で過ごし興福寺別当となり、高僧としてその生涯を終えるはずであったが、しかし、覚慶の人生が激変する事に。
『永禄の変』永禄8
義輝の死後、覚慶は松永久秀らによって、興福寺に幽閉・監視されたが、7月28日夜、覚慶は兄の遺臣らの手引きによって、密かに興福寺から脱出、1566年2月に還俗し義秋と名乗る、そのご逃亡生活を行いながら諸将に自分と共に上京し三好一派を倒し幕府再興を行うように書状を送るなどしていたが、9月8日、義秋は若狭から越前国敦賀へと移動し、朝倉景鏡が使者として赴き、義秋は朝倉義景のいる一乗谷に迎えられた。
京を都を不在となり中々上京しない義秋に対し朝廷は永禄11
織田信長は美濃平定し、満を持して足利義昭を神輿に担ぎいよいよ上洛に向け動き出すのであった。
── 別れ ──
「父上、ご様子如何ですか?」
「どうやら桜は無理であろう」
「間もなく春で御座います、暖かくなれば身体も些か楽になります、一緒に桜を観ましょうぞ」
「儂はのう、実は桜も良いが梅も好きなのじゃ、太田城の正門近くにある梅の木は父と母が植えたそうだ、あの梅に花が咲くと毎年、今年も元気な父上と母上に会えたと懐かしく嬉しくて毎年花が咲くのを楽しみにいていたのよ、それゆえ梅の木が好きなのじゃ、なんとか逝く前にもう一度梅が咲くのを観てみたい、今年も咲きましたぞ、今年も元気な父上と母上に会えましたぞと言ってお会いしたいものじゃ」
「義重泣くでない、親が先に亡くなるは物の順序であり幸せな事なのじゃ、親より先に子が亡くなるは悲しい事であり、儂が先に逝くは物の道理なのだ、儂の父上、母上も若くして亡くなってしまったが今も儂の中では元気に生きておる、不思議よのう、夢の中で母上に怒られたり、父と親子喧嘩をしたり、笑いあったりとそれは忙しい夢であったり、時には何も語らずお互いが何かをしており見守るだけであったりと、だから今も儂の中で父上も母上も生きておるじゃ」
「儂もきっと義重の中で元気に生きておるはずじゃ、戦で亡くなった者達もその家族の中で生きておるはずじゃ、人の死とは、戦や病気、突然の不幸な出来事で命を失う事がある、中には天寿を迎える者もおろう、亡くなる理由は皆それぞれであるが、次の者に紡がれる、思いが繋がるのじゃ、血の繋がらない者にも思いは繋がる、その繋がった、繋ぎ受け取った思いを大切にすれば良いのじゃ」
「正太郎殿が時々見舞いに来て下さる、義重に婚儀の話が出ておると言っておった、儂の事があり返事をしておらぬのであろう、儂に構わず返事をするが良い、喪など考えずともよい、49日を過ぎれば良き日に行えばよい、その方が婚儀を逃し、孫が生まれなんでは儂は化けて出るぞ、生まれる孫は儂の血も引いておるのじゃ、早く世に送り出して欲しい位じゃ」
「判りました、返事を致します、男子が生まれましたら義宣と名付けます、楽しみにしていて下され」
「宣の字であるな、佐竹の名を天下に宣ずるという事であるな、天下に佐竹の名が響き渡る、実に良い名ではないか、これで天下に佐竹の名が轟き渡る見事な名である、でかしたぞ義重!」
「ありがとうございます、父上佐竹の家、名門佐竹は偉丈夫の家として那須に忠節し必ずや再興致します、ご安心下さい」
「その言葉儂の胸底に大事に宝物として大事に致す、前を見て進むのだ義重、佐竹義重は我が魂であり、我が子なり!」
佐竹義昭、戦国を代表する武将の一人であり佐竹家の基礎を築いた、史実とは違い約二年と数ヶ月間寿命を延ばし、梅が散ると同時に亡くなった、この年、秋に義重は那須親族衆から妻を娶った。
1568年が開幕してしまいました、忙しくなって行きそうです。
「一閃と朧」になります。
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