母子


「なんだと、三条が消えたと申すのか? 消える訳なかろう、境内とその周りの森を調べよ、道に迷いこんだのじゃ、この馬鹿者なんたる事じゃ」


武田家の菩提が弔われている躑躅ヶ崎館から12キロの近くにある恵林寺で三条のお方と侍女二人が消えたとの知らせに、そんな事がある訳がない、寺周辺の森に迷いこんだに違いないと判断し急ぎ人を集め捜索させた、既に夕闇が刻々と迫っていた。


三人の捜索が行われている中、三人は鞍馬の配下により北側の扇山の山中から獣道を通り秩父に向かって移動、三条のお方と侍女二人は鞍馬の屈強な忍びに背負子に背負われ走り出していた。


この時代の女性は平均身長145㎝程度とされており、男性が平均157㎝とされている。


体重は40~43キロ前後とあった、着物の重量を考えても47キロ未満と言えよう。


足腰が強い鞍馬達六人が交代に背負いながら一気に山中を走り出す、速足で移動する事四日騎馬の荷車で移動する事三日、他休憩為に宿場町で二日間泊り、なんだかんだで10日目に武田館のある高林に到着した一行。



既に甲斐では行方知らずとなった大掛かりな捜索は終了されていた。



「お方様間もなく到着致します、あそこに沢山の人影が見えます」



「お~太郎に違いない、本当にいた、太郎が生きていた・・・・・」



既に三条のお方の目には大粒の涙が溢れていた、涙がとめどもなく流れる、感動のあまり足が止まる、動けず身を屈めた母の三条、動けなくなった母を見て、太郎が急ぎ駆け寄る。



「母上、母上、太郎です、母上、太郎です!」



太郎の声も涙声となり大粒の涙が流れていた、三条は、うん・・うん・・・と頷くも声を出せず、近づいた太郎の胸で泣くだけであった、太郎も声を絞り出し。



「親不孝の太郎を、太郎をお許し下さい・・・お許し下さい」



「・・・そなたを守れず・・この母を許しておくれ、母を・・・許・・して・・おくれ!」



徐々に二人の周りに館の者達が集まり輪に、やっとの事で三条は顔を上げると目の前には太郎の妻、嶺松院が・・・そっと二人で抱き合った。



「母上様・・・母上様・・・」



二人とも声が出ず只々抱き合い二人の温もりを確かめた、やっと声が出せる様になり。



周りにいる武田家ゆかりの騎馬隊に其方達を守れずに申し訳なかった、太郎を守り支えてくれた事、この三条心から感謝致す、今日よりこの地で共に暮らす事になる、力ない妾であるが皆の為に出来る事を何でも致す覚悟である、これよりよろしくお頼み申すと頭を下げた三条であった。



この夜は夕餉を取り早めに休む事にした、三日後に母を囲み主な配下と歓迎の催しを行う事になった、その歓迎の催しに芦野から帰還するに際し高林の太郎館に寄る事にした正太郎、無事に太郎の母親が到着した事を聞き、急ぎ大津浜に大勢の使いを走られお祝いの海産物を仕入れ太郎館に1200名の騎馬隊が訪れた。



野営の準備と近くの農民も呼び各陣幕で炊き出しを騎馬隊の者達にも慰労を行なった。



「館では正太郎を迎える為に正門前に三条のお方を始め太郎他重臣達が出迎えていた」



「三条のお方様ですね、よくぞ那須の地にお越し下された、那須をあげて歓迎致します、太郎殿もこれで心置きなくご活躍出来る事になりましょう、そちらが一緒に来られた侍女殿ですね、よくぞ三条様をお守りして那須に来られました、私からも礼を言います」



「那須の若様、この度は太郎をお守り下さり、心から拝礼申し上げ致します、太郎には二度と会えぬと思うておりました、それがまさかこのように会えるとは夢を見ている様です、太郎の妻嶺松院にも会う事が出来ここが本当の家であると実感しております、那須の皆々様に感謝しきれませぬ、生ある限り、ここにいる武田家ゆかりの者は那須に仕えて参ります」



「ありがとうございます、母上様ささ中に入りましょう、今日はお祝いの宴と聞きました、海の幸をお持ちしました、近隣の者達も騎馬の者達と楽しい一時を過ごしております、我らも一緒に一時を楽しみましょう」



「三条様那須に来られましてまだ幾日も経っておりませぬが、御身体のお疲れは大丈夫で御座いますか?」



「はい、皆が気を使い世話してくれたお陰で疲れは取れました、一度に遠くの距離を移動したのは初めての事にて、戸惑いましたが、山の中の移動では素晴らしい風景を見えたり残雪があったりと自然の豊なる事に感動もありました、背負って頂き大変だったかと思いますが、揺れ動く心地良さのお陰で、童に戻った様に寝てしまう時もありました」



「そうで御座いましたか、私も経験があります、背負われて山の中を移動し、その風景に感動し興奮致しました、時々猿がいたりと楽しい思い出があります」



「今少しこの地で身体を休めた後に太郎殿と烏山城にお越し下さい、父上も母上も三条様と会える事楽しみにしております」



「ありがとうございます、是非お伺いしご挨拶を致し等ございます、父上様母上様によろしくお伝えください」



この夜の語らいは太郎他騎馬隊の者も心弾む夜であった、翌日には烏山城に戻り父資胤に一連の事を報告し諸々手配する資胤に正太郎より新たな希望が伝えられた。



「佐野殿と交渉が纏まりましたら某も行きとう御座ります、私から和議を結び誼を通じたいと申しましたのでよろしいでしょうか?」



「では、宇都宮と小山の城代を伴って行くが良い、佐野殿もこちらが最大の礼を持って偶していると理解するであろう、佐野の隣は足利であり、その先には上野と武田が見えて来る佐野殿との誼は大切である」



「はい父上心得ております、問題なのは会津になります、間もなく凶作について報告があるかと思われます、相当覚悟が必要かも知れませぬ」



「頭の痛い話である、隣の領地で凶作、それも3年連続となれば大事ぞ、多少の施しは出来るが24万石の家を救うとなれば儂らだけの一存では無理である、昼間から酒を飲んでる当主では先が見えている、名門蘆名の衰退が凶作を呼び込んでいるやも知れん」




7月に入り会津蘆名領の状況が判明した。


日本中世気象災害史年稿によれば以下の事が記載されている。


1567年7月17日付会津一~六月、霖雨洪水、山崩谷埋、田畠人家流出大悪作


大飢饉、異本塔寺長帳 中世東国災害史略年表


1~6月 霖雨洪水とは長雨であり洪水が多発という意味である、がけ崩れで谷が埋まり、田畑と人も流された、大悪作とは、大凶作による大飢饉が起きた意味である。


日本中世気象災害史年稿とはその地域にある大名家の記録、寺院などで書かれた資料に基に全国の災害が網羅された史稿がネットで公開されている。


この作品で書かれている1550年代~の災害史を確認すると会津という地での災害が頻繁に見受けられる、隣の下野の記載はほぼ見当たらず、那須山裏側の会津で如何に災害が起きていたのかという事が読み取れる。


会津の事が書かれた異本塔寺長帳には災害関係の事柄が巻物として133mの長大な長さで書かれ紹介されている、長年に渡って書かれていると思われるが133mとは実に恐れ入った。




7月下旬烏山城にて緊急の評定が開かれた。



「今話した様に会津にて大凶作が見込まれます、長雨により日が射さず稲の実がなっておりませぬ、昨年も実り高は7割、此度は6割前後と思われます、昨年渡した米1万石と備蓄していた米など穀物はこの9月まで食料は持つかと思われますが、今回の収穫ではっきりと凶作になりますので、年の暮れまでしか持たないと思われます、その事についてどの様に図るべきかとの評定で御座います」



「本来我らが考える事では無く蘆名の問題であります、その蘆名はどうされておるのですか?」



「代官の松本殿話では、近隣の大名に米購入の打診をしている様ですが、伊達家から横槍が入っており芳しくない様です」



「では仮に当家から米を融通する場合どれほどの量が必要になるのですか?」



「凡そになりますが、6~8万石が必要かと思われます」



一同大いにざわつき、静まらぬ広間となった。



「数年前の那須の石高全てでも足りぬかも知れぬという事になります、取り組む場合は全ての七家で行わねば対処出来ぬ量となります」



「各家にはどれ程の備蓄がありますでしょうか? 他に昨年本家で買い上げた米が皆様の蔵にあるかと思われます、そちらの量が全部で一万五千石になります」



「某大関の蔵には約8千石かと思われます」


「某大田原の蔵には6千石かと思われます」


「某千本の蔵には4千石です」


「某福原は3千石になります」


「某伊王野は4千石になります」


「某芦野は3千石になります」



「皆様の合計で28000千石と本家が預けている15000千石を合計すると43000千石です」



「他に米商人が抱えているのが1万石と聞いております、本家では戦に備え15000千石の戦備蓄があります」



「今の話だと計算上はなんとかなりそうですが、同盟国でも無い家に手厚く致すは腑に落ちませぬ、御屋形様は如何思われますか?」



「儂も全く同じ意見よ、儂らがこれだけ多くの備蓄が出来るようになったのはついこの前の事である、大切な米を簡単に渡す訳には参らぬ、何も手を打たねば蘆名で一揆がおきるとの話を聞いて頭が痛くなったのよ、米の無い会津の一揆が那須に雪崩れ込むであろうと、特に芦野と伊王野に被害が及ぶであろうという話なのだ」



「何ですと芦野と伊王野に来るという事ですか?」



「正確には白河も含まれる」



「それは・・・とんでもない話です、折角田畑が広がり石高が増えて来たのです、一揆に荒らされては一大事です」



顔を青ざめ急に真剣に考えこむ一同、ここでようやく口を開く正太郎であった。



「では私からお聞きします、同盟国であれば米の放出はやむを得ないという事でしょうか?」


「それは勿論です、我らが結んでいる小田と北条との同盟は強き同盟です、それなれは三家はお互い助けると言う明確な同盟となっております」


「そうです、三家が主体の連合になっております、しかし、三家にはそれぞれ従属している家々があります、それも盟主三家の下で同盟もしくは同盟を行っており大きな輪になっております、その輪の中であれば、なんの憂いなく支援出来ます」



「そこで蘆名をこの際我が那須に従属させてはどうでしょうか? そうなれば米を放出する大義名分が整います、蘆名が条件を飲んだ場合の前提ですが、如何でしょうか?」



「それなれば問題無いかと思われます、従属している家を見捨てれば他の家々も離れます、助けて当然の事になります」


「父上如何でしょうか? 蘆名が当家を頼る事は明白です、既に7月です、蘆名領は広く手を早く打たねば災いが那須に来ます、この際、此方から従属の話をしてはどうでしょうか?」


「助ける家が、まだ助けてくれと頼まぬ前に動くとは逆さまであるが、先に動いた方が安全の様である、致し方ないゆえ、感触を探り図って見るか」


「では先の佐野家との話も和田殿の功績高く、幕臣であった和田殿に使者として正式に訪問して頂くのはどうでしょうか?」


「和田殿の威厳ある立場を利用して申し訳ないが和田殿それで宜しいか?」


「とんでも御座いませぬ、重用して頂き感謝致します、某将軍にお仕えしていた時は外交役をしておりました、むしろ某の役処になります」



「では文を用意致します」



「それと今年のお盆は例年通り致します、豊穣祭りは通達したように各地にて工夫し行って下さい、この烏山では内容を一新致します、名前も豊穣秋祭りと名を変えました、主に武芸も含め領民と楽しめる大会に致します」


「その武芸の内容とは何でしょうか?」


「間もなく村々に通達しますが、村々の力自慢(男女問わず)6名を選び綱にて引き合う、綱引きを行います、武家も10組作ります、村々から予選を勝ち上がり10組と武家の10組、計20組で決戦を行い勝者を決めます、この目的は日頃から労作業で働く者達の力を称え、奨励する事になります」


「それと相撲大会、弓の競技、騎馬の技競いとなります、それと全く別な調理の品評会になります、調理の工夫は誰でも参加出来ますが、審査は母上と侍女衆にて行います、優れた方は賄い方に推薦します」


「それは面白そうですね、各皆様の家にも賄い方がおります、そこへ新しい息吹を入れ、良い食べ物は領民に広げる目的です」



「領内は今年も豊作と聞いておりますが油断せず政をお願いします。」





会津が戦国時代では自然災害が特に多かった地だという事を私も知りました。

今は猪苗代湖から用水を引き広大な農地がありますが全く違う状況なんですね。

次章「大凶作と大豊作」になります。

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