関ケ原・・・8
関ケ原の合戦が後一日で決着が着くと言う極めて重要な場面ではあるがそれを見る事が出来ない洋一と玲子にも重要な手か掛かりとなるある秘密に辿り着こうとしていた。
「洋一さん、確認なんだけど、この川越にある今成神社って何系の神社だった?」
「何系って宗派の事ですか?」
「そうそう神社にもいろいろな系統の神社があって良く観光地で朱色の鳥居が沢山あってそれ神秘的な空間だってSNSで映える写メが沢山あるよね、あれなんか稲荷さん系が多いのよ、今成神社は鳥居が何本もある稲荷系とは違っていたから、解る?」
「あ~それの事ね、今成神社は熊野神社だよ! でも玲子さんもその事は知っているよね?」
「だから確認って言ったのよ、洋一さんと那須資晴が460年という刻を超えて繋がっている理由に神社が関係しているように思えて来たの、不思議というか私が勘違いしてたんだけど那須家の始まりって与一じゃ無いのに解っていながら与一とも関係していると先走っていたの、でも那須家は聖徳太子が推し進めた律令の時代に那須家が始まっているんだよね、大事な事を見落としていた感じなの!!」
「え~律令まで遡るの?」
「え~とねぇー、まだパズルの状態だから組み合せして絵になっていないけど相当関係した話かも知れないの、前に那須ノ国が律令時代に出来た事を説明した時があったでしょう、その事は『日本書記』に書かれていて国の成り立ちが紹介されているけど、那須の国が出来た時の功労者が紹介されているあの碑文にこう書かれているの!」
「
そして「永昌元年」は唐の則天武后そくてんぶこうの時代に使用された年号であり、碑の文字が六朝時代の書体書風であること、またこの当時新羅人を下野国に居住させたということが「日本書紀」に記されていることなどから、渡来人と非常に密接な関係のある資料として注目さているという、この最後に書かれた二行に注目なの!」
「いい洋一さん、最後の二行に書かれている新羅から来た渡来人の事が日本書記に書かれていてこの渡来人が那須の国造りに大いに貢献したって紹介されてるの、ではこの渡来人って誰なのか? 実はこの渡来人の研究が諸説あるんだけどほぼ確定されていて日本の名前だと秦さんという苗字、要は秦さんと呼ばれている人達の祖先って事なの、ここまでは理解出来た?」
「渡来人が日本名の秦さんだって事は理解したけど那須家とどんどん離れて行くようだけど?」
「じゃー途中の説明を省くけどこの秦さんと呼ばれた渡来人が鞍馬天狗の祖先って言ったら一気に那須と近づかない? ぐっーと真横に来た感じにならない!!」
「え~~渡来人の秦さんが鞍馬天狗の祖先だって? どんなミステリーなんだよ、本当に関係した話なの全く理解出来ないよ!!」
「まあー説明を省いたからそう思うのが当然だよね、でも鞍馬の祖先だったら本当に近づいたでしょう!! 少し長くなるけど取りあえず聞いてね、その秦さんと呼ばれた人達は新羅から来た事は日本書記に書かれいるから本当の事、ではその秦さん達は新羅の国の人なのかというと違うみたいなの、姿形がアジア人と違って今で言う中東の人達って感じなの、それと秦さんという名前は日本の来た際に当時の天皇が与えた名前でその秦さん達はどこからやって来たのか・・・なんと古代のイスラエルから部族の争いで負けたか又は逃げて来た一族だというのが最近の研究で諸説はあるけど判明して来たの! その説を利用する理由は大きく言って二つあるの、一つは日本に稲作文化を日本に定着させた人達、あと今も残って居る山伏という修験者達の元祖が秦さん達だったと言う説が有力なの!!」
「そしてこの元祖秦さん達こそが聖徳太子が作った帝を護る組織、志能便と呼ばれた忍びの集団よ、鞍馬天狗の衣装は秦さん達が着る衣装と瓜二つ、八咫烏の大天狗の姿が山伏だって知っているよね、あの姿が秦さん達の先祖である神官の衣装であって同じかっこうなのよ、そして今でもイスラエルで使用されている言語多数が日本語と共通した発音と同じ意味だという研究結果があるの!」
「ねっ! まんざらな話じゃないでしょ!!」
「う~でも那須家にいる鞍馬達は源平合戦で経緯から湯西川の地に辿り着いた人たちだし・・・どう関係あるのか・・」
「だから私もまだパズルの状態だから絵になっていないって言ったでしょう、私が言いたのは今成神社が洋一さんと那須資晴に関係しているって線からいろいろ辿っているの? その一つのピースが今の話なの、ちょっとは洋一さんも考えて色々推理したりしてよ!!」
「確認した意味は鞍馬天狗の神社は熊野神社だよね、那須家と今成は神社では繋がってないけど鞍馬とは神社で繋がったんだよ、今成神社は今成の祖となった宇野源十郎が200貫465文という高禄の俸給で与えられた武蔵国川越筋今成という領地に宇野源十郎が態々熊野神社に勧進して分祀して出来たのが今成神社、今私達が住んでいる地域のこの今成と言う川越に関係した祖先そのものが発起人となって創った神社だよ、これって大きいパズルのピースかと思うけど、洋一さんが中学一年生の時に気を失ったあの時と関係があるんじゃないかと・・もう一度思い直して!!」
洋一はすっかり忘れていた最初の那須家と関係した中学一年生のあの時の事を原点の日に起きた出来事を思い出した、中学一年の時に部活の弓道部顧問に連れられて、同じ一年生4人と一緒に、弓で、世界で一番有名な伝説の人、たった1本の矢で歴史を作った『那須与一』を学ぶ為に、栃木県大田原市の道の駅に来ていた、道の駅では人形劇による源平合戦で与一が活躍する場面が上演されていた、平氏が漕ぐ小舟に乗った女性が、義経を中心とした源氏に挑発する場面、小舟の上で棒に刺した扇を砂浜にいる義経達に『お前たちにこの扇を打ち落とせる勇者がいないであろう』という挑発をする有名な場面。
挑発された義経は『見事あの扇を打ち落とせる者はいるか』と、自軍の兵士に向かって声をかけて何人かの坂東武者が名乗りを上げ義経の元に集まって来るが、ある武者が一人の若者を弓の名士であると言って連れて来る、それが那須与一であった。
義経は集まった坂東武者たち一人一人に聞く『お前はあの的を落とせるのか?』と、坂東武者たちは俺なら打ち落とせると自信たっぷりに言うと、最後にお前はあの的を落とせるのかと与一に聞く義経『大変に難しいことなれど、命とあれば我が命に代えて』と答えると若武者、義経は周りにいる武者たちにこの若者に任せると、その理由は、坂東武者の性格は自分を抑えることが出来ず、自分の力を過信する所がある、しかしこの若者は冷静に今起きている場面を誰よりも理解している。
『この若者に射る事が出来なければ誰にも成しえることは出来ないであろう』と義経は宣言し『おぬしの名はなんという』『はっ、那須資隆が十一男 那須与一と申します』と、答え義経は与一に見事に扇を射ち落とし与一の名を天下に示せと命じる。
命を受け愛馬 鵜黒に騎乗し、小舟の浮かぶ浜に移動する与一、砂浜から海の中に騎乗したまま、愛馬の膝が見えなくなる深さまで海に浸かり、与一は心の中で己の決意を歴史に残る名文句を唱える『南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ、これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず、今一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外させ給な。』と宣言し鏑矢を一射打つ。
平家の軍勢と源氏の軍勢が見守る中、与一の放った鏑矢は音を立て海上に浮かぶ小舟にある扇に向かい見事に打ち抜き、扇は海に舞い落ちていった、その人形劇を見た洋一は、全身から血が沸き上がりその場で気を失ってしまう。
人形劇が終わり暗転から場内に照明が灯され、そこには気絶した洋一が床に倒れており、救急車で運ばれた、あの出来事である。
気を失った洋一の意識の中では全くの別の景色が見えていた、そこには自分に語り掛ける武士がいた、何故かその武士こそ那須与一だという確信が、そして俺、洋一に語りかけていた。
「このままでは那須の家は滅亡する、湯西川の奥地にある平家の隠里を訪ね、鞍馬なる者を探せ、その者たちがお前の助けになるであろうと、最強の弓を手にし、那須家を蘇らせるのだ、今成家の者よ、あの日の誓いを、ワシとお主と我が子孫は繋がっているのだ、わが子孫を助けよ!」
という不思議な場面が那須家を頼むという気を失っている洋一に深い意識の中で与一が語りかけていた。
確かにあの日より始まった・・今の俺はあの日より動き出した、玲子を知り合ったのも偶然ではない・・・全てが目に見えない糸で繋がり史実とは違う歴史を大きく動かし那須家は天下を取る処まで辿り着いた、何故与一は俺と言う洋一を選んだのか?
玲子が自分と結ばれた事で軍師となり次々と繰りなす軍略で5万石の家が何時しか300万石を優に超える戦国一の大家に、那須家と盟友となった北条家、小田家、遅れまじと関東管領家上杉家までが付き従え日ノ本統一の天下取り、戦国に終止符となる明日一日の決戦となった今、洋一の託された使命も完遂する事になる、何故460年の刻を越え繋がったのかという最大の疑問を残して天下取りはあり得ぬ、この意味を解決する事で歴史の持つ修正力を史実と違う那須資晴が行う天下取りにしなくてはならない、それこそが洋一が繋がった使命と言えた、その答えが玲子が疑問に感じた神社と言うキーワードによってピースが浮かびあがる。
── 関ヶ原 ──
「半兵衛! 夜が明けるぞ!」
「ではこれより合図を送ります!!」
半兵衛の右手が左右に振られ100本の石火矢が天空に向かって放たれ炸裂した、攻撃する為の石火矢ではなく炸裂音を響かせる合図の石火矢が関ヶ原の戦場に鳴り響いた。
関白側も負けじと三成に命じ国崩し10門と小筒50門にて那須側に向け砲撃させた事で両軍の幕が切って落とされた、この日に決着させるという意気込みは関白側の方が強い気持ちがあると言って良い、明日には北条家、小田家の軍勢がこの地に来るという危機感が最初からあり夜明け前には20万の軍勢が横陣を展開し一気に那須側に攻め入る態勢を夜明け前には整えていた。
厚みのある横陣の前方集団には那須の五峰弓に対抗して同等の弓である日光弓の部隊と鉄砲を放つ飛び道具の部隊多数を配置していた、長くなっている横陣には要所要所に武将を配置し臨機応変に戦える指揮権を与え秀吉は自軍が見渡せる松尾山に予備兵4万と共に強固な本陣とした、史実ではこの松尾山には小早川秀秋が最後西軍を裏切り次々と仲間の軍勢に襲い掛かり東軍家康の勝利を決定付けた、しかし此度の関ケ原合戦では秀吉健在の中での戦でありそのような裏切りはこの時点では無い物と思われていたが果たして・・・。
関白側の布陣は正面左側が西軍の関白軍、一番手前に松尾山の本陣を構えた秀吉と4万の軍勢が配置され将として加藤清正、可児才蔵、小早川隆景がいる、本陣から見て最奥が笹尾山となりその麓に石田三成の砲撃部隊がいる、三成は戦下手である為に砲撃による支援(5000名)が主となる、三成の手前に立花宗茂4万、その手前に島津義弘と豊久の2万がいる。
最奥に三成がいる松尾山があり立花、島津と配置されているその隣に天満山がありその麓に小西行長、加藤義明、宇喜多秀秋の厚みのある中心になる8万の軍勢が配置されその手前に前田利家・福島正則が2万にて中央に配置されている、関白軍はこの中央にいる10万の攻撃部隊に力を集中させ勝利を決定させる作戦である。
史実での三成側の布陣も歴史研究者からの意見の大半は西軍が有利であり裏切りさえ無ければ勝利していたであろうと多くの意見が見受けられる、史実と違う天下人豊臣秀吉が戦う関ヶ原合戦が動き始めた。
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