陣触れ前夜


時の流れは止める事は出来ずに速く過ぎて行く、両陣営は戦に備えて準備を整え開戦まで1年を切り天下分け目の関ヶ原が目前となった、関白には嫡子鶴松が誕生し、53歳での嫡子の誕生であり待ちに待った我が子の誕生であった、その喜びとは別に同じ頃、秀吉に取って右腕右足、いや秀吉の半身とも言える弟秀長の病状が悪化して行く、唯一関白秀吉を制止出来る人物が表舞台から去ろうとしていた、秀長あってこその天下人になれた秀吉、温厚な性格で秀吉を補佐し支えた弟、多くの大名が秀長を頼り、お家安泰のとりなしを頼みその地位を守る事が出来た大名達の守護者と言えた。


史実における朝鮮出兵は2度に渡り国の総力をあげての侵略戦争、それは文禄の役、慶長の役と呼ばれ、最初の文禄の役では158,700人の兵士が参戦する事に、日本の死傷者21,900人以上、朝鮮側の死傷者36,000以上とされている、当初用意した兵糧も莫大であり一説には30万石以上の食料を用意させ兵站をおこなったとされるが、出兵における日本側の死傷者の多くは餓死者であったようだ、海を隔てて輸送し朝鮮側に届いてもそこから荷駄隊が兵糧を送る事になる、敵地での兵站は現代の戦争でも最重要課題であり長期戦となれば当然と言える。


なにはともあれ宣旨の代わりに勅許という形式で関白は認める事にした、帝出席の壮行会が出来る事にこれ程の名誉は無いと考え1590年4月中旬に尾張、岐阜、畿内周辺の秀吉本軍による派手な演出による出陣の壮行会を行う事になった、壮行会を経てそのまま九州に向かいいざ朝鮮に侵攻作戦を開始すると決定した。




── 総陣触れ ──




「関白殿下は総陣触れを発したか、あと半年後であるな! では我らも天下取りの総陣触れを出す事に致そう、但し軍全体へは通達しては成らぬ、各家の当主に密かに伝えれば良い、全軍への通達は関白が京を出立してから陣触れを行うと念入りに口頭で伝わる様に手配するべし!」



「判り申した、蝦夷の義兄様には此度の件如何致しましょうか?」



「実は年が明けてから3月頃に3000名の戦士を連れて来ると、断ったのだがどうしても来るという事になった、仕方ないので安東殿に迎えに行く様に頼んでおいた、安東家はその後は上杉家と合流するとの事じゃ、あと和田殿に内々に伊達、最上、南部に接触して頂いている、参戦は無理強いでは無いが蚊帳の外に置くべきで出ないと田村のじい様が何かと諫言してくるので和田殿に頼んでおいた、どうなるかはこれからの事である」



「では我らは半兵衛殿の要請通り2月より巻狩りと言う名目で集まり那須山の麓より陣立ての調練を行いながら南下して参ります、御屋形様の合流は3月で宜しいですね!?」



「それと朝廷にはこの件の使者を送り再度説明した方が宜しいでしょうか?」



「それには及ばん、鞍馬殿が天狗同士で話を伝える方が安全であると、十兵衛には一足先に北条殿の処に行って頂く、別動隊となるが勝負のカギを握る役目ぞ、抜かりなく頼む!!」



「判っております、勝利の勝鬨の際は某も御屋形様と共に鬨の声を上げさせて頂きます!!」



「うむ、必ず共に鬨の声を上げようぞ!!」



史実における那須資晴は決して特別に秀でた才ある将ではなかった、小さい家の石高の当主であり最後は小田原合戦に参戦しなかったとの理由で秀吉によって改易させられた、小さい家でありながら関白の要請を断る資晴は凡将ではあっても義侠の心は強く信念を曲げぬ将であり、配下達に慕われていた、改易となってもお家再興のために配下の者達は懸命に働きかけを行い後に家だけは再興出来る事となる。


しかしこの歴史では幼少時より洋一と繋がり史実を知った資晴の才は目覚ましく成長を遂げ、5万石の家が300万石を優に超える家に、この戦国期で資晴より右出る武将は存在していない、未来という歴史を知る者がどれ程凄い事なのか!! 那須資晴を支える右腕左腕となる小田家、北条家も資晴によって返す事が出来ない程の恩恵を受け大家となった、他にも管領家であった上杉家、又、蝦夷の那須ナヨロシクも歴史上初のアイヌの民が安寧出来る地として蝦夷の北海道の地を得た事でアイヌ民族が安心して暮して行ける多大な恩恵を受けていた、資晴によって恩恵を受けた家は多々あり、那須資晴の天下取りという一言で恩を返す時として東国が一斉に動き出す事に。


事実における西国と東国の力量とも言える石高や人口はどうであったのか? 統計的に見ても明らかに大きな違いがあったと言える、戦国期の史実における東側の発展している地は極端に少ない、特に天下統一される前は差は激しく、西国を100とした場合と比べると東国は60~70程度であろう、東国は小氷河期と呼ばれたこの時代度々飢饉に見舞われいる、それと大きい理由に都から離れている事も要因としてある、さらに石高の割に領地が広く人口が少ないとの事で中々開拓が進まず石高が増えない時代であった、石高が増えなければ人口増とならず現状維持する事が精一杯の時代と言えた。


が、しかしである、資晴による塩水選による田植え、砂糖、とうもろこし、さつま芋等による画期的な作物が増産され事で石高増産に繋げ、この20年間は人口増の波が押し寄せ一気に増大していた、資晴が生まれた当時は那須家の領民は9万人程度、それが今では40万人に膨れ上がっている、史実における現代の栃木県の人口は約200万人、この人口増の現象は小田家、北条家でも当然起きていた。


力を蓄えに蓄えた東国が間もなく那須資晴の号令で動き出す!!




── 洋一の快癒 ──



うつ病を発症した洋一、初期の段階で娘の那美が気が付き対処した事で1年も掛からずに快癒したと言える、但し、うつ病の発祥は何度でも起こり得る精神の病であり、過度のストレスは絶対に避ける事を何度も説明を受けた玲子であった。


この日は那須烏山市のJAから梅まつりに招待され妻の玲子と娘の那美と一緒に参加していた、長年農機具のメンテナンスを行って来たベテランの洋一はJAとも長い付き合いであり招待されていた、那須家との縁を考えれば不思議な縁と言えた、梅が見事に咲き、桜とは違う美しさあたかも控えめな女性の舞を見ているようである、洋一の実家でも梅が数本植えてあり毎年花を咲かせた後に大きい梅の実が取れる、それを梅干しや梅酒として自宅で利用し余った実は市場に卸している。


美しい梅まつりを見学した後に折角那須烏山市に訪れたので市内で有名な山あげ会館に訪れ人形劇『山あげ祭り』を観劇した、山あげ祭りとは那須資晴の父親資胤が作り上げた那須烏山市最大の祭りであり460年以上の歴史がある、市のHPに紹介されている内容をここ。


時は永禄3年(1560年)時の烏山城主那須資胤が、当地方の疫病防除・五穀豊穣・天下泰平を祈願し牛頭天王を烏山に勧請しました。その祭礼の奉納余興として、当初は相撲や神楽獅子等が行われていました。やがて江戸歌舞伎が隆盛になり、常磐津所作が流行したのをきっかけに常磐津所作を奉納余興として行うようになったことで、今日のような全国でも類例を見ない豪華絢爛な野外歌舞伎舞踊の形態となり、昭和54年2月には国の重要無形民俗文化財に指定されました。この「烏山の山あげ行事」は、現在6町内が輪番で行われ、毎年7月の第4土曜日を含む金曜・土曜・日曜の3日間行われます。


山とは、網代状に竹を組んだ木枠に烏山特産の和紙を幾重にも貼りその上に山水を描いた「はりか山」の事です。その「山」を人力であげる事から、「山あげ」と呼ばれるようになりました。


「山」は常磐津所作(踊り)の舞台背景としてあげられ、観客の前に据えられた舞台から道路上約百メートルの間に百名に及ぶ当番町若衆が一糸乱れぬ団体行動のなか御拝、舞台、座敷、波松、舘、前山、中山、大山等が瞬く間に遠近よく配置されます。そして、常磐津の三味線と唄にのって、地元の踊子が洗練された美しい踊りを披露する日本一の移動式野外劇です。


是非那須烏山市のHPを覗いて下さい、そこには動画でも祭りの模様が紹介されています、ここは栃木でありながら別世界の古式の祭りが見れます、資晴の父親資胤の偉業が今でも伝わる祭りです。




「那須資晴も立派だけど父親も素晴らしい人だったんだね、本当にここが那須の国の中心地だったんだね、那須と言うとどうしても那須山の高原地域のイメージが先行するけど、この烏山市が中心なんだね、城こそ今は跡しかないけど歴史のある町なんだね洋一さん!」



「何度も仕事で来ているけど烏山は本当にいい所だよ、城跡も寄って見よう!」



城跡に向かう中、目に留まった古そうな神社の動画を撮る玲子、そして目的地の城跡に。



「この看板に城の事が紹介されているよ!」



烏山城は、町の中心より北西に位置する八高山(206m)に築かれた山城で、山の形が牛の寝ている姿に似ていることから、別名臥牛城-がぎゅうじょう-とも呼ばれています。古記録、系譜等によりますと、沢村五郎資重-さわむらごろうすけしげ-(下那須氏)が兄の那須資之-なすすけゆき-(上那須氏)と不仲となり、本拠の城を追われ稲積城に移り、応永-おうえい-25年(1418年)に現在の地に城を築き新たな拠点としたのが始まりとされています。


烏山城は応永25年(1418年)、那須一族の沢村五郎資重さわむらごろうすけしげによって築城されたと言われています。それ以後、天正18年(1590年)に当主那須資晴 が、小田原遅参を理由に豊臣秀吉によって改易されるまで那須氏の居城となりました。その後、織田・成田・松下・堀・板倉・那須・永井・幕府代官・稲垣氏と短期間のうちに城主が交替しましたが、享保10年(1725年)大久保常春-入封の後は、大久保氏が8代140余年にわたり城主となり、明治2年(1869年)の版籍奉還とともに廃城となりました。


城域は、東西約370m、南北約510m、面積約88haに及ぶ広大なもので、五城三郭とよばれる主要部分からなり、防御施設として空堀・竪堀・堀切り・土塁等が設けられ、本丸周辺には石垣も築かれています。また、万治2年(1658年)時の城主堀親昌により城の東山麓に新たな居館(三の丸)が築かれ、以後、城主の居住地はそちらに移ることとなりました。


現在、城跡は杉林に覆われていますが、空堀・土塁・石垣などの各遺構が良好な状態で現存し、また、八雲神社北側から毘沙門山・城山に至る遊歩道が整備されていますので、城跡を見学しながら周辺を散策することもできます。(約1時間程度)



「説明文には資晴の名前も書かれているね、最後の当主って、この説明文を見たら切なくなったよ、秀吉が憎たらしいね、460年も前の事なのに!」



「はいはい、もういいでしょう二人とも、甘い物でも食べに行こうよ、折角私も来たんだから、お母さんの作る甘味じゃない物が食べたいよ!!」



「それなら素晴らしいロケーションで甘い物が食べれる処があるから行って見ようか!」



「そう来なくっちゃ、じゃーお父さん連れて行って!」



「うわー何ここ! 気持ちいい、最高の場所じゃない、滝が凄い! 滝を見ながらカフェランチ出来るなんて素晴らしい処じゃない!!」



「ここで農家周りした後で飲むコーヒーが最高なんだよ、あの滝の上に電車時々通るんだよ、いつも急いでスマホで取ろうとするけど間に合わなくて未だに取れてないんだよ、準備しておくといいよ!!」



那須烏山市の名所、龍門の滝 江川にある高さ20m、幅65mにわたって流れ落ちる滝。大蛇が棲むという伝説があり、名称の由来にもなっている。

初夏の新緑や秋の紅葉など、季節ごとに見せる滝の表情がすばらしいので、何度でも訪れたくなる場所。

列車と大きな滝を一緒に撮影できるスポットは、全国でも珍しいといわれています。

滝の上を列車が通過する数秒がシャッターチャンスです。四季折々の「龍門の滝」とともにお楽しみください。冬場には、滝の凍結を見ることができます。

好条件の時にしか見ることができませんが、滝が凍結している姿は圧巻です。

と市のHPにはこのように紹介されている。


そしてオートバイ好きには特別な聖地が那須烏山市なんです、カワサキのブランド『メグロ』の聖地がこの市なんです、毎年メグロキャノン・ボールという名前でイベントをしています、関心ある方は検索してみて下さい。

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