薫風

  

「長野の動きは掴めたか? 西上野の国人領主共は如何なっておる」


「はい御屋形様、長野の子倅は何処ぞに消えたままです、上杉に身を寄せているかと思われますが、忍びを放ち探られましたが、警戒が厳しく探れませぬ、西上野の国人領主達は御屋形様に従うとの誓約書がありますので目立った動きはありませぬ」


「では長野の影響も無いようであるな、上野の領主達は仕える主を直ぐに変えるので油断がならん、手は抜くな、甘い顔をしてはならぬ、それと問題は塩じゃ、塩をどうするか?」


「どこもかしこも海は遠くです、北条が無理であれば、常陸の小田、三河の徳川、その位しかありませぬ、どちらも甲斐からでは遠くですので輸送と費えが嵩みます」


「塩が無ければ大事になるぞ、小田でも徳川でも良いから融通出来る様に致せ、出費が嵩んでも今は仕方ない、それにしても塩を止めるとは氏真にしては痛い所を突いたものよ、褒めてつかわそうでは無いか、いずれその地は儂の物になる」


「御屋形様一つ懸念があります、箕輪城周辺の農民が長野と共に消えておりますが、これからの田植えが出来ませぬが、どの様に致しましょうか?」


「城の水も飲めんのじゃ、農民もおらぬのだから放置するしか無いであろう、駿河を取り力を蓄え、上野一国を手にした時に手を入れればいいであろう」


「上野一国という事は北条とも事を構えるのですね」


「駿河に攻め入れば完全に手切れとなる、なれば遠慮はいらん、西側をこちらで押さえているのじゃ国人共を束ねれば5千以上の兵が利用出来る、策はあるゆえ駿河の次は上野じゃ、北条に一泡吹かせてやる」


「北条は最近那須とも誼を通じておるようです、上野の隣になりますが大丈夫でしょうか?」


「急に大国となった様であるが、宇都宮と小山が碌に戦わず負けたそうよ、その様な腑抜けを取り込んでも烏合よ、那須の者だけ注意すれば問題ない、戦で強いという話を聞いた事が無い、運が良かっただけよ」


「では塩の件、馬場よ手配致せ!」





── 神隠し ──




「太郎殿この話をどう思われる、そちの一存次第である」


「出来る事ならお会いしたく切に願います、ただ訪ねても簡単には信じて頂けぬと思われます」


「信頼出来る侍女はいるかのう?」


「侍女長とその娘が嫁いだ時に一緒に来た者です、その二人なれば信じられます」


「名はなんと言う方じゃ?」


「母の方が綾、娘の方が華です」


「では先ず塩を使い怪しまられない様に近づいてみる、少し時間を要する事になろうと思うが成功すれば寿命を延ばせる筈じゃ、今からなら間に合うであろう」



軍師玲子から伝わった話から正太郎が独自に太郎との謀を行う事に、伝わった内容は太郎の母親がこれより三年程で亡くなるという話であった、武田信玄があと三年程で労咳となり約6年後に亡くなる、母親も信玄に病を移され呆気なく死んでしまう。



母親の三条夫人は京の三条邸で生まれ、三条家は七清華の一つ、摂関家に次ぐ家柄、極官は太政大臣という格式ある家柄であり何不自由なく育てられた、しかし嫁いだのは山奥の甲斐という国、雅な京と比べ物にならない辺境の地であった。


三条婦人に取って生きがいは最早子供しかなく、我が子の成長が唯一の希望であり生きる支えであった、その最愛の我が子太郎が父から謀反として処断されたと聞き、その日より館から出る事も無くなり公の場には一切出る事を拒否し姿を見せなくなった。


武田家に太郎が居なくなった事で三条がこの地にいる理由が無くなってしまう、勝頼は側室の子であり自分とは関係ない、何れ勝頼が後を継ぐとなれば館から離れ尼になるだけであり、太郎を奪った信玄を許せないという感情が奥底では既に憎しみとなっていた。


正太郎と太郎が行う謀は母三条を神隠しの如く館から連れ去る計画であった、偶然今川家による潮止が行われ、小田家に塩を購入したいとの使者が現れ、勝手に行う訳には行かず、対応を北条家、那須家に打診があった。




── 武田躑躅ヶ崎館 ──




「御屋形様、小田家より文が届きました」



「ほう、成程、読んでみよ、中々の返事であるぞ」



「これは・・・直接の取引ではなく商人を遣わすので、その者から塩を仕入れる様にとの事ですな、その者が便の良い所に店を開きそこより購入した事にして頂きたいと書いてありますな」



「北条家に気を使い、商人から塩を買うなら致し方無いという事であろう、この館近くの空いている庄屋、もしくは店子を開けさせ準備するのじゃ、町の者も買いに来るであろう、塩を手当出来ればこちらは充分じゃ小田が言う通りにしてやれ、馬場手配せよ」



程なくして塩を積んだ荷駄の列が甲斐を訪れ躑躅ヶ崎館に『しおや』店主、ましお、が挨拶に伺った。



「お主が塩商人か、屋号が『しおや』というのじゃな、よう来た、他にも色々と持って来た様じゃな」



「はい、この度は常陸小田様より武田様へ失礼が無い様に手配りする様にと仰せつかり塩以外にも海魚アジの干物を200匹と氷室箱に新鮮な鯛を入れお持ち致しました、何分峠道を越えて来ますので一度に多くの品をお持ちする事が出来ず今後仕入れの為に何度も来る事になります、武田様の領内を通るに当たり関税を免除頂けるよう朱印をお願い致します」



「魚の干物と氷室箱に鯛を持って来たか、それはありがたい、朱印の件、安心するが良い、関税を払えば益々塩の値が上がるそんな意味のない事はしない、その方は塩以外にも魚の手当ても出来るのか?」



「はい、当店は塩を中心としておりますが、魚の他、食する物と家々で必要な小物、それと侍女や賄方の女性への御髪の道具など一通り扱っております」



「ほうそれは便利である良い商人を小田殿は手配して頂いた、確かましおと言ったな、困った事があればこの馬場に頼むが良い、此度はご苦労であった」



馬場より案内された店に着き開店準備を整える『しおや』の店主ましお、ましおは偽名であり、鞍馬の忍び申である、店奉公人も鞍馬の配下、まさか武田の躑躅ヶ崎館の近くに鞍馬の店が出来るとは誰もが気付かぬ事である。



店を開店させ館周辺に塩が購入出来る店が出来た事を聞き付けた上級武士や町人等が連日店に押寄せた、塩は生活に必要不可欠な物であり、特に寒い地では事欠かせない物資である、今川から塩が途絶えた中『しおや』なる店が出来た事で奥方衆が喜ぶ化粧道具と時々入荷する海魚の干物はその日の内に売り切れとなる人気店になった。



正太郎の考えは甲斐に暮らす人々には敵愾心も無く同じ日ノ本の民でありその民の為になるのであればそれで良いと考えていた、武田信玄は何れ戦う敵かも知れぬが直接の利害関係は今の所なかった、今はその関係を利用するだけであると考えた。


「馬場様しおやの店主、ましおが来ております、通してよろしいでしょうか?」


「では中庭に来るように」


「如何した、ましお、店で何か不都合でも生じたか?」


「いえ、滅相もありません、お陰様で皆様に御贔屓頂き商売の方は順調で御座います、本日は馬場様に御頼みがあってお越しいたしました」


「ほう、某に頼み事とはなんであるか?」


「お聞きしました処武田の御屋形様の奥方様のお身体の具合が宜しくないとお侍様からお聞きし、こちらの菓子を食されてはとお持ち致しました」


「食が進まぬ時でも食せる麦で作られた甘い菓子となっており大変食べやすく滋養がある菓子で御座います、店には多めに仕入れる様手配りしており間もなく入荷されます、御口に合うようでしたら幾らでもご用意出来ますのでお試しにお渡し願いたいのです、馬場様もご食願います」



「ほう、どれ頂くか・・・・これは美味い、甘くていいではないか、これなら奥方様も食せるかも知れぬ、見舞いがてら某が届けよう、他に伝える事があれば聞いておく」



「お元気になられましたら是非お店にお越しくださいとお伝え願います、奥方衆が喜ばれます化粧道具などもあります、とお伝え願えればと思います」


「ようわかった、某の侍女共にも店に行かせよう、この菓子は何時頃入るのじゃ?」


「あと五日ほどで入荷致します」


「よしではこの菓子は預かった」



鞍馬の調査でも三条夫人が寝起きしている館からは何処にも出かけていないとの事であった、三条夫人を甲斐から連れ出すには館から出ない事には手が見いだせなく馬場を使い菓子で誘い出す事にした。



「その方がしおやの、ましお殿であるか?」



「はい、ましおで御座います、どちら様でしょうか?」



「妾わらわは、武田家三条様のお方様付き侍女長の綾である、その方であるな甘い菓子をお方様に託したのは?」


「はい、店主のましおで御座います、余計なお節介で御座いましたでしょうか?」


「そうではない、お方様からお礼を言付かったゆえまかり越したのじゃ、お方様が大層お喜びしており、菓子があれば皆に食べさせたいとの事で私が来たのじゃ」



「さようで御座いましたか、あの菓子は沢山入荷しましたので、如何ほどの人数で食されますでしょうか?」


「そうじゅな、20名程で食するであろう」



「判りました今準備致します、こちらへどうぞ」



「準備しております間、此方を食してお待ち下さい、これは特別なる食べ物で、甲斐の国ではこの店でしか食する事が出来ませぬ菓子になります、口外はしない様にお頼みいたします、数が無いので知れ渡ると二度と食する事が出来なくなります」



ましおが出した菓子とは『那須プリン』である、麦菓子を食べれば必ず侍女が菓子を求めて来る、最初に来る侍女は身分の高い侍女であろうと読んでいた、しかし実際に来た侍女は太郎が言っていた信頼のおける彩という年齢の高い侍女であった。



出されたプリンに驚き、甘い香りが微かに漂い食をそそる。



「この匙にて食されて下さい」


一人の侍女と目を細め笑いゆっくりと最初の一口を食した・・・さっと溶けてしまい甘みが口に広がり何とも言えぬ幸福感に包まれる菓子、あまりの美味しさにひと匙すくう度にプリンが減って行く事にもっと食べたいと願うも減ってしまい実に哀愁漂う菓子であったと感想を漏らす程の衝撃的な菓子であった。



麦菓子を綺麗な箱に入れ店に戻るましお。



「御口にあいましたでしょうか」



「本当に美味しい甲斐の国に来てより初めての事じゃ、この様な菓子を食したのは初めてである是非お方様に食させてあげたい、どうすれば、やはりここに来るしかないであろうか?」



「はい、この菓子は材料が特別な物であり数日に一回、それも数個しか作れませぬ、食する場合はこの店でしか食べれませぬ、ここで作り館へ届ける場合、とても柔らかい菓子なので形が崩れてしまう事になり無理なのです」


「判りました、私がなんとかお方様をお連れ致します、準備が出来た前日に使者を寄越して下され、この紙を門番に示せばお方様の館の門に入れます、では頼みましたよ、今日は素晴らしい日となりました、ありがとうましお殿」



五日後に準備が整ったことを知らせその日が訪れた、三条のお方が店に来たのである。



「そなたがましお殿であるな、綾が是非にと申し世話になる、頂いた菓子も皆喜んでいる」




「むさ苦しい店にお越し頂き申し訳ござりませぬ、店主のましおで御座います、今ご用意致しますので此方にてお待ち下さい」



プリンが運ばれ三条のお方と侍女長の彩と前回と同じもう一人の若い侍女の三人であった。



「ほんに柔らかそうな菓子であるな、甘い香りもする、では遠慮のう頂きます」



少し離れて見ているましお、女性が美味しい物を食べている時の顔は誰も同じなんだと何故か冷静に見守っていた、一通り食べ終え三人とももっと食べたいという顔付にましおが。



「おかわりもありますが如何いたしますか?」



「ほうそうであるか、折角なので頂こう」



とあっさり返事する三条のお方、結局プリンをおかわりしてお茶を飲む三人、その顔は大変に満足しましたという顔であった。




「本日はお越し頂きありがとうございました、お方様へ常陸の飾り職人が丹精込めて作りました御髪の櫛をご用意しております、是非お持ち帰り下さい」



館に帰り土産の箱を開け櫛を見ると身体が固まり涙を流す三条のお方、この櫛の絵柄に見覚えがあったのだ、その絵とは櫛に漆が塗られ細かい桜貝が貼られ桜満開の様子を見上げる母と子の姿が描かれていた。



この絵は・・この絵は間違いない、そうだと立ち上がり戸棚に大切にしまってあった絵を取出して見比べた三条・・・・そこには滂沱となり嗚咽する三条。



取り出した紙に書かれていた絵とは桜満開の花を母と子で眺めて楽しんでいる親子の絵である、この絵は太郎が子供の時に書いた絵である。



この絵を宝にすると言った母、この櫛の絵を見れば絶対に思い出すであろうと太郎が作らせ、櫛を渡せば鞍馬の申『しおや』店主ましおに、必ずこの櫛はどうしたのか尋ねるであろうと託したのであった。



櫛を見て泣き崩れ時間が止まる中、慌てて綾を呼ぶ三条。



「どうされました、涙で顔が腫れております、何があったのですか?」



「それよりこれを見よ、今日しおやの店主から頂いた櫛とこの絵を見比べよ」



「見事な櫛です、それに、これは同じ絵柄で御座いますな、この絵を参考に作られたのですか?」



「そうでは無い、この絵は太郎が幼い時に私に描いてくれた絵じゃ!」



「なんですと! 櫛に描かれている蒔絵と同じではありませぬか、その様な偶然があるのですか? 不思議で御座います」



「よいかこの事は絶対に御屋形様に悟られてはならぬ、明日もう一度そなたが店に行き確認するのじゃ、櫛の蒔絵櫛をどうして、この櫛を私に渡したのかを聞いて来るのじゃ、誰にも悟られてはならぬ、侍女の中には御屋形様に通じている者もおる事お主も知っているであろう、漏らしてならぬぞ、華にも良く言い聞かせるのじゃ、良いな」



翌日侍女綾がしおや店主に昨日のお礼と称して店に訪ねて来た、二人きりで話したいと言われ奥の部屋に通すましおであった。



「妾が来た理由をそなた察しているか? お方様にお渡しした櫛についての事じゃ」



「はい、綾様、充分に察しております、今日この様にお話しが出来る様にあの櫛をお渡ししたのです」




一気に訝しめ顔色を変える彩であった。



「その方何者である、武田家に仇する怪しい者であるか!」



「ご安心下され、御耳を少し近づけて下され、私は武田太郎様の使いでここに参りました、太郎様は生きております、その事を母上である三条様にお伝えするべく、あの櫛を太郎様が私に渡したのです」



「な、ななんと、太郎様が生きておるのか? 処断されたと聞いている、どこにいるのじゃ?」



「今は詳しい話は出来ませぬ、太郎様より母上を救い出して頂きたいと私共に願われこの地に来たのです、太郎様は元気にしております、母上の事を考えられ我らに託されました」



しおや店主ましおから太郎が生きている事、この地より救い出し一緒に暮らそうとの誘いである旨を聞いた綾、急ぎ帰りこの秘事を三条のお方に伝え、驚くも太郎が生きておれば間違いなくこの母の身を案じておるに違いない、この話は本当であり、あの櫛こそその証であると確信し、これよりしおやへ綾と娘の華が菓子を買いに尋ねるという形で詳細の打ち合わせが行われる事に。



この日より10日程過ぎた頃、季節も5月入り三条のお方より信玄に恵林寺に行き武田家の菩提を訪うと伝え了解を得るのであった。



ここ最近は部屋に籠り臥せっていた奥方の三条が珍しく外出する事に、少しは太郎と別れた悲しみが薄れた事を喜び承諾をしたのである。



侍女を伴い躑躅ヶ崎館から12キロ程離れた恵林寺に向かう三条の足は軽く、一歩、歩けば太郎に近づく、二歩、歩けばもっと近づくと言った軽やかさであった、侍女10名程を引き連れ恵林寺に到着し、菩提である武田家の墓に手を合わせ、今日この地より離れる事、何れ戻る日がありましたら訪れ致しますどうかお守り下さいと手を合わせたのである。



一通り終え境内を散策するという事で侍女達それぞれに休憩するように指示、三条のお方と侍女綾と華の三人にて別行動となった。



暫くして戻らぬ三人を探し始める侍女達であったが、三人の姿は何処にも見当たらず、この日より行方不明となった。



甲斐国も新しい実りを得る希望の春となり田植えも終盤、薫風薫る爽やかな五月の暖かい日であった。







『那須プリン』この話の為に生まれたのでしょうか?

そんな訳ないと思いますが、プリンが活躍してしまいました。

次章「背中で語れ」になります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る