海軍創設


── 怨恨 ──



岡崎城城奥の間で徳川家康の妻、瀬名が侍女共相手に怒鳴り散らしていた。



「なにゆえ戻らぬのじゃ、どうしてじゃ、この岡崎が主城であろうが、どうしてなのじゃ、その方なぜ殿は戻らぬのか理由はなんであるか言うてみい!」



「築山様お怒りは御もっともなれど、きっと殿様には殿様の御考えがあるのです、私にはそこまで判りませぬ、どうかお静まり下され」



「女じゃ、女がおるのじゃ、きっとそうじゃ、妾という妻がおるのに帰らぬはずがない、浜松の城に女がいるのじゃ、きっとそうじゃ、そなた浜松の城に行き確かめてくるのじゃ、もし本当に女を囲っておったら殺して来るじゃ、命令ぞな、早速確かめに行きゃれ、女がおれば殺して来るのじゃ!」



家康の正室である妻の瀬名、別名築山殿は気性が激しく、育ちは今川義元の重臣、関口親永の娘として育てられ、姫として何不自由無く育ち政略として家康に嫁いだ、その後、義元が討取られ、家康が今川から離れた事で、氏真により、瀬名の父親、関口親永が切腹されられたのである。


自分の旦那である家康が今川から離れた事で父親が氏真に殺され、その大きな原因となった織田信長を恨み、織田と同盟を結んだ主人である家康と何度も口論となっていた、更に浜松を得た事で家康は岡崎から足を遠ざけてしまっていた、この時はまだ妻の瀬名が起こす災いに気づかぬ家康であった。



「殿、岡崎の城より、殿宛に侍女が文を持って来ております、如何致しますか?」



「ふむ、判った、では折角だ岡崎の様子も聞いておこう!」



「文を持って来た侍女であるな、確か名を『万』と申したか、良く参った、岡崎の様子はどうであるか? 信康は城主としてしっかり勤めておるか?」



「はい、若様が昨年岡崎の城主となり、皆励んでお勤めしております」



「それは良かった少し乱暴な所があり心配であったが城主となり気が納まり政に励むは良い事じゃ、瀬名は、築山はどうしておる?」



「どうした、顔色が悪いぞ、遠慮のう話して大丈夫ぞ!」



「はい、殿がお戻りされるのをお待ちしております、どうか私共からも早く戻れられますようお願い致します」



「その様子では又荒れておるのか、八つ当たりされているのだな、困った奥方じゃ、帰れば帰ったで必ず口論となる、言い争いをする為に帰るのは疲れる、ほんに困った話であるな」



「それと瀬名様は殿がお帰りにならぬ理由に、この浜松の城に女を囲っているからと申しております、本当で御座いましょうか?」



「あっははは、その様な埒も無い事を勘繰りしているとは、呆れた奴じゃ、万も大変であるの、暫くここに滞在し儂の身の回り世話を頼む、さすれば女を囲っているかどうか判別出来るであろうよろしく頼む」



「では暫くお世話をさせて頂きます」



この侍女の万は後に家康の側室になる、家康の世話を浜松でした事を報告した瀬名は、万が家康と床を一緒にしたと勘繰り、怒りの矛先が万に向かい虐待される事になる、余りにも酷い仕打ちであり、命の危険が垣間見れた事で見かねた岡崎の家臣が万を連れ出し、浜松に避難させた。


家康の世話をし、女がいないと判明し、岡崎に戻った万が一ヶ月もしない内に浜松の城に変わり果てた姿で戻り怒りを露にする家康。



「済まなかった万よ、もう岡崎に戻らずとも良い、ここにおれ、今は身体を厭え直すのじゃ、何も心配はいらぬ、そちは儂が守る、安心致せ」



この万が岡崎で庇護を受けた事で益々瀬名が恨みを溜めこみ悪女へと変化していく、戦国を代表する夜叉となる。




── 小田守治──




1572年卯月慶日この日、常陸の小田家嫡男彦太郎の元服式が行われた、幼名彦太郎から守治と名が改められた。


元服式では管領殿が今度は彦太郎を猶子として名乗り仮親になった、山科殿は京が慌ただしく参加出来ずに他に騒ぐ者がおらず管領上杉殿の意向が反映され守治は猶子となった、又、式において許嫁が発表された、奥方となる許嫁は那須資晴の妹皐月である、後の正洞院である。


式は厳かに進み、その後、饗応の祝いとなった、饗応役には菅谷と、赤松の重臣が、その小者として真田昌幸も膳を運び、酒を足すなど器用に動き回っていた、真壁は楽しく喜びの宴を見守り、場を乱す暴れる者への監視役をこなしていた。


資晴は父上の資胤の横におり、緊張している守治に笑みを向け、緊張を解す仕草をしていた。



「父上、某も守治殿と同じ様に緊張しておりましたか?」



「自分の事はもう忘れたか、長く正座をしており、足を崩せと言うでも頑固に大丈夫と言い張り、立ち上がる時倒れたでは無いか、あれも緊張していた証拠よ!」



「あ~あれは流石に恥ずかしい姿でありました、足が痺れ、どこかに足が無くなったかと思いました、あの時は二刻も正座しておりました、もう懲り懲りです」



「まあー儂にも似た様な経験がある、何事も経験である」



「これで小田氏治殿も一安心であろう、嫡子が元服するという事は父親が責任を果たしたという事じゃ、これでいつでも隠居が出来るという事だ、資晴は当主に成りたいか?」



「某はまだまだ駆け出しで御座る、父上の後を付いて行くだけです、当主とは家そのものであり、誰もが成れる訳ではありませぬ、それに初陣もしておりませぬ」



「初陣か、お前の言っていた来年が初陣なのかも知れぬな」



「私はなるべく争いに成らぬ様に先に手を打っております、今では戦もせずに大きい家になりました、それが一番です」



「一通り挨拶も終えたようじゃ、守治殿に挨拶しに行っても大丈夫ぞ」



「では一言話して参ります」



「守治殿、元服おめでとう御座る、これで我ら大人に成ってしまいましたのう、早いものです」



「はい、これでやっと資晴殿に追い付けました、まだ大人の気分には慣れませぬが、共にこれからもよろしくお願い致します」



「こちらこそよろしくお願い申します、守治殿がおらねば海の事頼れるお方がおりませぬ、色々と教えて下され、それとあの船は完成したので御座るか?」



「はい、完成はしたのですが、安全に運行出来るかを菅谷と里見の海賊衆で試験をしてます」



「では見る事は出来るのでしょうか?」



「勿論です、明日にでも造船所に参りましょう、資晴殿も驚かれると思います、船は3000石ですが、大きさはさらに一回り大きくなっておりますので城その物です」



「それは楽しみです、では明日よろしくお願い致します」



3000石船は米を3000石の重量が積める船であり450tもの荷重を乗せられる、船倉も数ヵ所に分けられており、船長室、操舵室、客室なども幾つかあり長期に渡る航海が出来る様に工夫されている。


翌日、造船ドックに三家の主だった者と仮親の管領までも付いて来た、ドックに到着すると巨大な何かが目に入る、船に見えるが巨大すぎて船とは理解出来ない代物がそこにはあった。


造船所内は深い堀が地面を削った、凹上の上に屋根があり雨風をしのぎ完成した船を浮かばせるために水を流し込み船をドックから出向させ、湾内を試験的に走らせ不具合など改良し、完成させる。


今は最終の点検段階で数日後に完成した船を走らせる段取りまでこぎ着けた、この船の造船にあたり陣頭指揮を取っていたのは守治であり、その才は見事と言えた、守治が居なければここまで大きい船は完成しなかったと言って良い、海軍士官学校が作られてより、操船技術は菅谷一族が真っ先に覚え、里見の海賊衆も加わりさらに北条家、那須家の者達が加わり既に操船出来る者が500名を超える陣容となった。


守治は最初に300石の船を作った時に徹底的に各部材の材質、寸法、強度、問題点を洗い出し、模型を作っては帆の数、三本マストの設置位置を色々と変え、安定性、速度、揺れなどを確認し、300石から500石、1000石、そして今回の3000石という帆船を作り上げた。


ほぼ城には戻らず、常に造船所の中で寝泊りを行い、四六時中船の事を考え今日を迎えていた。



「皆さま、この大きさに驚かれたかと思います、日ノ本では初めての大きい船かと思われます、遥か昔の律令の時代には日ノ本にも大きな船があったと記録がありました、唐国、隋国に渡る船が作られていたようです、しかし、戦国の世となり大きい船を作る技術は失われたようです、しかし、今ここに蘇りました」



守治の説明を聞き、感嘆する一同。



「これは・・これ程の船で何をする気でいるのだ?」



「管領様、それは某が守治殿に代わりお答えします、この大きい船にて日ノ本、蝦夷、琉球とで交易を行うのです、遥か遠くの地へ行く事になり、外洋の波に耐え無事に戻って来る為に大きい船が必要なのです」



「その為には管領様の協力が必要となります、それについては後程お話し致します、まずはこの偉業を成した守治殿にお言葉をお願い致します」



「そうであった、ここまで見事なる船を造るとは並大抵の事では無かったであろう、守治よ、儂は感動している、この船を見て、そなたを猶子に出来た事を誇りに思う、この船に名を授けよう『小田日本丸』と名付けよ! 日ノ本の誇りの船であり国一番の船である」



近くにいた海賊衆からも歓声があがり、お~素晴らしい、やったやったという拍手が沸き起こった。



「管領様ありがとう御座います、『小田日本丸』の名に相応しい船になりますよう励みます」



管領は暫くこの造船所から動かず、さらに酒を持ってこさせ、海賊衆達と海の魚を用意し盛り上がってしまった。

その為、管領を置いて、三家を引き連れ、守治の研究ドッグへ場を移した。



「守治殿この船は以前大津から南国の者が丸太から作った船と似ておりますが?」



「そうです、あの親子が丸太から作った船を研鑽し、海戦時に戦で利用出来る船を造ったのです、資晴殿から頂いた木砲も一台搭載出来ます」



「これの大きさは積載出来る荷重は?」



「以前伝馬船の帆船が50石仕様の船を造りましたが、これは船足を求めたので30石です、前の伝馬船より細身になっており、旋回と船足を早くしており、横にある浮き木(アウトリガー)の浮力で波が高くても揺れに強く安定した戦船になっております」



北条家でも過去には里見家と何度も海戦を行っており、旋回能力と船足の重要性は理解しており、氏政より戦闘時の事に付いての質問が。



「和船の戦船に比べてどの程度船足が速いのでしょうか?」



「この浮き木(アウトリガー)が付いている側に旋回する早さは和船とほぼ同じですが、浮き木(アウトリガーここからはこの表現で)が無い方向に旋回する場合は一気に旋回出来ますので風にも寄りますが3~5倍の速さで行えます、和船はどうしても漕ぎ手の櫂で速度を出し旋回するので遅くなります」



「そんなに早く旋回出来ますのか、船足はどうなりますか?」



「和船は旋回すると又漕ぎ手による人力で推力を得るので中々船足が上がりせぬが、この船は風を利用しますので船足は旋回時に遅くなりますが、その後はまた早く、あっという間に戻ります、反転した後は、帆の向きを変え、風の向きに合わせ、右上がり又は左下がりと一旦敵船を追い抜き、抜いた後にこのようにして敵船に向かい攻撃出来ます」



守治は地面に風向きと船の進行方向を書き説明した。



「仮に風が無い場合でも、この船は二人による櫂で推力を得れる様になっておりますので今までの和船より少し早く動けます」



「この船があれば面白き海戦が出来ますな」



「某は海戦の経験がないので判りませぬが、海の戦ではこの小さい船の方が役立つという事でしょうか?」



「資晴殿、海戦は陸とは違い、武器は矢が中心となります、足場が揺れていると中々当たりませぬ、そして最も肝心なのが船足と旋回なのです、敵船から不利な位置から離れ又は有利とみたら近づき、それを繰り返すのに何度も旋回致します、後は操舵する者が潮の流れを的確に読んだ方が勝ちます」



「それではこの船は木砲まで搭載するとなれば・・・・凄い力を発揮致しますね」



「守治殿、実に見事です、北条家はなんども里見家と海戦を行い正直中々勝てませんでした、今は同じ三家の中にて争う必要はありませぬが、資晴殿の話では必ず必要な時が来ます、この船は間違いなく必勝の武器となる船でありましょう」



「ありがとう御座います、平時では荷の陸揚げにも使えますので、操舵する者達の技術も上がって行くでしょう、あとはこれをどれ程作ればいいか思案しておりました」



「どの程度必要かと思われる資晴殿?」



「その前に、この船と戦う場合、敵船は何艘必要と見ておりますか?」



「・・この船と戦うなれば、手練れの漕ぎ手を揃えた船が最低でも5艘必要では無いでしょうか、5艘でこの船を囲い攻撃するしか方法は無いでしょう、それでも難しいかも知れませぬ」



「であれば後程話します交易の船数との関係で200~300艘必要となります、交易船1隻に3~4艘、某の交易計画では主船となる船数が64隻となりました」



64隻と聞いて呆気に取られる氏政と守治。



「え~と今、64と言われましたか?」



「はい、日ノ本全体と蝦夷と琉球を賄うにはその数が必要になります、これは交易船の数なので軍船の主船は含めておりませぬ、交易船も戦時に利用出来ましょうが、それに頼らず戦船の主船も必要となります」



「すまんが資晴殿それだけの船数をどの程度の期間であれば良いとお考えか?」



「64隻の交易船は現在お持ちの和船500石船1000石船を利用し、新しい帆船が完成したら徐々に後退させて行きます、64隻の船であれば、油屋だけでも10隻は持っております、数が足りなければ不足分の船を買います、新しい帆船を造る過程で不足するであろう船材は交代した船を解体し、その木材を利用し帆船の材に充てます、そうして行けば良いかと、64隻の交易船はこの一年以内に用意出来るかと思います」



「戦船の主船ですが、こちらも将来の事を考えた場合、1000石~先程の3000石船を20~30隻必要かと思います、期間はそうですね、5年でどうでしょうか?」



「う~・・・今の話、守治殿どう思われますか?」



真っ青な顔で船数を聞いていた守治。



「交易船の不足分については今ある船など利用すれば足りそうですが、戦船の主船1000石~3000石の船となれば・・・・北条様の所で造られているドックは幾つありますか?」



「今は5つである」



「なんとかドックを倍にして頂き、この30石船は資晴殿の那須で作って頂き、小田と北条家で大型船を手分けして造るしか、それしか方法は無いでしょう、それでどうでしょうか?」



「それしか無さそうでありますな、資晴殿が言われた何れ訪れる未来の大戦に備えるには、それと操舵する者達も数年以内に3000名程必要かと、戦船で戦う専門の兵員もそれとは別に1万程必要となります、その者達も全員が士官学校を経る必要があります」



「仕官学校も三ヵ所創りましょう、全部で13000名となれば今の規模では無理です、幸い手練れた者達が一通り育っております、その者達が教える側に回り育成致しましょう」




この話し合いで三家による、日本初の海軍が創設された、その功績は小田守治という傑物の存在がいた事で日ノ本回天となる初の『日本国海軍』が創設された由縁の日となった。






小田守治が実にかっこいいですね『天気晴朗ナレドモ浪高シ 敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス 皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』

何れあの戦法が編み出されるのでは無いでしょうか、日本海海戦時に使われた必勝の戦法です、名前はまだ言いません、てか有名な名前なので、皆さんで考え下さい。

次章「蝦夷快進撃」になります。

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