第19話 軍師玲子の戦略・・・2


洋一と別れた後に、玲子は地図と向き合い、知れば知るほど、ため息を連発するのであった。



それは那須家の領国が繁栄するには条件が悪すぎたのだ。



1、関東の最奥の北の地域、福島県の手前である。


2、関東地方の中央より奥にあり、那須の家は山と大きな大名家に囲まれている。


3、上方には遠く、戦国の情報が入らない疎いうとい地域である。


4、海が遠くにあり、貿易が出来ない僻地。


5、石高も低く、鉄砲などの用達は到底無理、貧乏である。


6、無駄に広い領国、西国の国と比べると那須家は優に1国の広さを持っている。


7、石高が少ないので、人口も少ない。



まだまだ考えればデメリットばかりが目立つ、那須家のメリットなんなのか。



1、那須家では権力争いがほぼ無い。


2、親子の関係は良好。


3、那須家は長い歴史ある家柄なので、譜代の臣が多い。


4、関東八屋形の家柄である、由緒ある家である。

  (当主は殿ではなく御屋形様と呼ばれる資格がある)


5、那須国造なすのくにのみやつこ、なすこくぞう8世紀後半に古事記に記載、考元天皇の孫である大臣名が初代那須国造に任命、神話の時代から那須家はその子孫とされている。(だから何という話)


日本三古碑という最古の碑の一つです。


折角なのでここで、那須国造碑について説明します、少しお時間下さい。


5で説明した結構昔に那須という国は存在する証拠の碑文が現存します。


 碑身と笠石は花崗岩である、19字×8行=152字の碑文が刻まれている、石碑が存在します。



石碑の説明として、永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。『永昌』という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。



延宝4年(1676年)、僧侶・円順により石碑は発見され、その報を受けて(那須郡に領地を有していた)水戸藩主の徳川光圀(時代劇で有名な天下の副将軍、水戸黄門様の事)が笠石神社を創建して碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提、意志麻呂父子の墓と推定した上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣の佐々宗淳に命じている。



碑は表面を下にして埋もれていたため、碑文が風化することなく保存されたと推定される。なお考古学的には、上侍塚古墳と下侍塚古墳はいずれも5世紀の築造と推定されており碑の年代(7世紀)よりずっと前のものになる。



書かれている内容は。



永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。


 歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に殄れり。故に意斯麻呂ら、碑銘を立て、偲びて尓か云ふ。


 仰ぎ惟るに殞公は、廣氏の尊胤にして、国家の棟梁なり。一世之中に重ねて貳照せられ、一命之期に連ねて再甦せらる。砕骨挑髄するも、豈に前恩に報いん。


 是を以て曾子の家に嬌子有ること无く、仲尼の門に罵者有ること无し。孝を行うの子、其の語を改めず。夏の尭の心を銘じて、神を澄まし乾を照らさむ。六月童子、意香しくして、坤を助けむ。


 徒を作すこと之れ大にして、言を合わせ字に喩かにす。故に翼無くして長く飛び、根无くして更に固からむ。


訳文


永昌元年(689)四月、天武・持統天皇の治世で那須国造を務めた追大壱那須直韋提が、評督(評の長官)に任ぜられた。


その後、文武天皇四年(700)正月二日に亡くなった。そこで、意斯麻呂等が那須直韋提を偲んで、次のように銘文を刻む。


思い返してみると、亡くなった韋提は広氏の末裔であり、国家を支えた人物であった。一生の内に国造と評督に任ぜられるという二度の栄誉にあずかり、生涯を終えてもその業績は子孫に引き継がれた。粉骨砕身して、必ずや韋提の業績と恩に報いなければならない。


孝行の家門に驕る者はなく、孔子の門弟に罵る者はない。孝を重んじる韋提の子である我々は、その格言に背くことはない。孝で知られる堯の心を銘じ、心を澄まして父を顕彰しよう。孝の心ある子は、母を助けるものである。


立碑のために多くの者が集い、言葉を紡いで碑文を記す。我々の功績は、翼はなくとも広く知れ渡り、根はなくとも強固なものになるだろう。と書かれています、関心がある方は検索してみて下さい、一応紹介しました。



この那須国造碑という、国造碑について、律令時代の到来とともに、各地に築かれた石碑のうち、建立の年代が特定されたもののうち、もっとも古い3つの石碑が日本三古碑。多賀城碑(宮城県多賀城市)、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)の3ヶ所です。


 それぞれ国の重要文化財、国宝、国の特別史跡に指定されています。



個人的な意見なのですが、この石碑は、律令制度の道筋を開いた聖徳太子の徳政がこの那須の地にも築かれた証ではないかと思います。 長い説明で申し訳ありませんでした。



要するに那須家は凄く古い家柄だけと、不便な地域にあり、貧乏で、強い大名達に囲まれた家であり繁栄出来ない条件に恵まれた、実に可哀そうな那須家というのが現状の様である。



今の領主である那須家20代、資胤さんの史実では亡くなるまで無難にやり切れそうだけど、嫡子、正太郎の時に一気に傾くという史実です、この五か年計画である程度、潤う様に内政に力を入れた方が良さそうだと考える玲子である。。



その上で、那須家が飛躍していくには大きな一手を王手金取り見たいな、バシっとした一手を打って、焦った相手から実際には飛車を取る様な一手がどうしても必要だと、飛車を取らないと自由に動けないから、盤面を変える戦略が必要だね。



やはりここは、この手で飛車又は角を取り那須家の手駒を増やして戦局を有利に持っていくしかないと一人絵を描き始める玲子であった。



戦略を練っては地図と睨めっこする玲子、その一方で、玲子の元から自宅に帰った来た洋一、なんだか疲れ果てた洋一はベットに倒れこむのであった。



時期は八月となり、正太郎の元に鞍馬の天狗が配下を連れてやった来た。



7月には鞍馬より百合の侍女見習いとして梅という13才の女子が遣わされおり、百合のもとで、城での作法や、武家としての作法を習う事になった。



侍女見習いの梅は鞍馬の者であり、忍びの訓練は受けている女衆の一人である。



正太郎は父上には百合付きの侍女として平家の里から来たと紹介。

鞍馬天狗一党が来た事を父上に知らせ、拝謁する場を用意して頂いた正太郎である。

鞍馬天狗の他に女将も当主にこれまでの平家の里に対しての御礼を伝えるべく来たのである。


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