8-30 閑話 獣欲 〜命の価値は〜 1



「まったく、困ったやつだ」


 覗きにきた仲間を追い払い、ルクレツィアがあきれたような口調でつぶやく。

 しかしその目はおだやかに細められ、口もとには笑みが浮かんでいた。

 それは日溜まりに咲く野花のような……騎士団にいたころには、見たことのない柔らかな顔。


 苛立ちと嫉妬で、自分でも知らないうちに唇をかんでいた。

 しかもその顔をさせているのが、あんな頭がどうかしているガキなのだ。


 軽くなってしまった左腕に目を落とせば、受け入れ難い現実にもはや笑いそうになる。

 鈍く続く痛みが、これが悪夢ではないことをこれでもかと叩きこんでくる。


 それでももう怒りも湧かない。

 ただただ気味が悪く恐ろしい……これ以上あのガキには関わりたくない。なんであんなやつにルクレツィアが……。


 憔悴しきって顔を伏せているヤルスの表情はわからないが、少なくともラッセルは僕と同じ思いだったようだ。


「考え直せルクレツィア……あのような気の触れた子供につき従って、なんになるというのだ」


 自分の主をとことん否定されたルクレツィアだったが、どうということもなさそうに笑った。


「さあ? なんになろうとなるまいと、考え直すことなどない」

「なぜだっ……今のお前の力であれば、騎士団長とて夢ではない。騎士として誓った帝国への忠節を思い出せ。帝国のためにこそ、その力を活かすのだ。なんなら私が口を利いてやってもいい」

「つまらん命乞いだな」

「聞け、お前がいたころより私の序列は上がっている、だからっ」


 ラッセルの言葉は命乞いという面も、もちろんあるだろう。

 しかしそれと同じくらい本気で言っているようにも見えた。ここまできて帝国への忠節とか……貴族というのはこれだから。


 そもそもアドラスヒル様の件はどうするつもりなんだ。

 現役を退いたとはいえ、まだアドラスヒル様の騎士団や国への影響力は大きい。あの方がルクレツィアを排除しようとしているのであれば、騎士団に戻るのは難しいどころではない。


 たしかに今のルクレツィアの力が、僕たちなんかとは比べ物にならないレベルに到達しているのはわかるが……いや、自分の知るルクレツィアは、常に強かったか。

 そして……それ以上に美しかった。


「聞く意味はない。残念だがもはや私の忠節は、私の全てはあいつのものだ」


 ラッセルに対し、馬鹿げているとルクレツィアが首を振る。

 その揺れる髪がまだ長かったころの姿が、否応なしに脳裏に浮かぶ。


 僕が憧れ、欲した彼女の姿が。





 初めて彼女を見たのは、騎士団の詰所つめしょだった。

 憧れだった騎士団、それも黒鉄への入団に舞い上がっていた気持ち、不安、緊張──全てが吹き飛んだ。


 女が化粧をするのは、この顔を目指しているのだと思えるような、ハッキリとした目鼻立ち。男なら誰しもが組み敷きたいと願う、あまりあるほどメリハリのきいた体つき。

 想像の中にしかいないような……むしろそれ以上の女。


『ルクレツィア・オイデンラルドだ、よろしく頼む。正規の騎士ではあるが、そんなにかしこまらないでくれ。背中を預け合う者として、仲良くやっていこう』


 意外にも気さくな歓迎の言葉と共に差し出されたしなやかな手を握ったとき、彼女と同じ班に配属された己の幸運さを神に感謝した。


 そして同じ班で共に過ごし、ルクレツィアは容姿だけでなく能力も優れていることを思い知らされた……嫉妬を抑えきれないほどに。

 騎士団に入ったのは彼女が先だが、年齢は自分が一つ上だ。にも関わらず、手合わせをして一度も勝つことができずじまい。


 なにが神童だ、なにが原石だ。そうやって持てはやされてきた自分など、凡夫であり石ころでしかなかった。紛い物でしかなかったのだ。

 天賦の才におごらず、己を磨き続けてきた輝く宝石……本物を目にし、器の違いを思い知らされた。


 しかもその身に流れるのは、オイデンラルドという高貴な血。

 ルクレツィアは全てにおいて計り知れない価値を持っていたのだ。もし彼女が手に入るなら、将来を誓った幼馴染みのマリエラなど惜しくもなんともなかった。


 もしルクレツィアに欠点があるとすれば、それは体だけではなく心までもが、強く美しくありすぎたということだろう。

 そのせいで上役のジミエンに盾突くようなことも多かった。あの人は、裏でいろいろやっているようだから。


 そんな気高い彼女だからこそ……天上人のような彼女だからこそ、この手で地に引きずり堕ろしてやると皆がさらに躍起になったのだ。

 だが、誰一人として羽衣のすそを掴むことすらできなかった──僕も含めて。


 ルクレツィアは僕が平民にも関わらず、分け隔てなく接してくれていたのに……だから僕に気があるのだと信じていたのに!

 それなのに……マリエラや他の女を落としてきた口説き文句に返ってきたのは、拒絶の言葉と迷惑そうな表情。


 去り際にそれすらもすぐに虚無に変わったのは、気のせいではなかった。

 翌日からのルクレツィアの態度は、今までとなんら変わることがなかったのだ。


 僕はルクレツィアにとって、単なる同じ隊の部下。

 男としてなど、なんの影響力も持っていなかった。


 そう気づいたとき……彼女への想いは、黒いものに転じた。


 だから……あれはたまらなかった!

 ルクレツィアを馬から蹴り落としたあのとき! あのとき感じた愉悦といったらもう!


 悔やむべくは、トドメを刺す前に敵と遭遇してしまったことだ。

 もともと、『敵の不意打ちにあってルクレツィアが犠牲になった』という筋書きにするはずだったものが、実際に起こってしまった。

 しかも生きて捕虜となるなんて……。


 他国との小競り合い程度の戦いの場合、捕らえられても処刑されたり、そのまま奴隷になるようなことは少ない。特に貴族であれば。

 それは貴族が自分たちの身を守るための、暗黙の了解と言っていいのだろう。身代金と引き換えに国に返されるのが通例だ。

 だから僕たちもさっきまでは無事に帰れると思っていたのに……くそっ、それなのに!


 ……当時もルクレツィアが帰ってきてしまうと思っていた。

 そうなれば、僕たちは糾弾される。牢獄行きの未来に戦々恐々としていたが……そうはならなかった。


 オイデンラルド家が身代金を払わなかったからだ。

 ルクレツィアが実家と折り合いが悪いのは知っていたが、まさかそこまでだとは思いもよらなかった。

 ともかく奴隷となればあのような体だ、長くはもたないはず。これでことなきを得た──


 ──はずだったのに。


 今、目の前にルクレツィアがいる。

 あのころよりも、強く美しくなって。


 ……僕はここで殺されるのだろうか。

 もちろん死にたくなんてないが、見逃されたところでどうせこんな腕じゃ騎士なんて続けられない。

 今まで見下してきた有象無象から哀れまれながら生きていくなんて耐えられない。だったらそのほうが幸せなのかもしれない……。

 いや、でもマリエラだけは僕を見放さないはずだ。彼女と共に細々と……騎士だった僕が? 細々と?

 ああもうっ、頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 でもはっきりしているのは、ここで殺されるとしても、それはこの女に憎悪を植えつけることができた結果だということだ。

 僕は、ただの部下ではなくなったのだ。

 そう思えば、少し誇らしく死んでいけるかもしれない……。


 だというのに──


「しかし……騎士団に未練などはないが、お前たちを見逃すことは考えてやらんでもない。実はな、最近悩んでいたのだ。私の内にあるお前たちへの憎しみは、どれほどのものか」


 ──なにを言い出すんだよ……。


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