6-03 なかった



 その日、ラボ内で朝食の支度をしていると、ホテルの部屋のドアが乱暴に叩かれていることに気づいた。


 お高いホテルには泊まっているが、たまに気分転換に二時間ほど御休憩する以外ほとんど部屋は使っていない。

 最上級の部屋なのでもったいない気はするが、俺たちは稼いでいるし少しは街に還元するべきだろう。


 それにこっちが望んでない訪問客をちゃんと追い払ってくれるのが、なによりもありがたいのだ。


 今はさらに、一階に侯爵の兵も常駐している。


『変に他の貴族などと関わって揉めてもらっては困る』


 とのことで、俺たちへの面会には侯爵という壁が立ちふさがっているのである。

 揉めるのが前提になっている気がするんだが、どういうことかな。


 そんな中を正面から突破してきたのはどこのどいつかと思えば、


「タチャーナさん! タチャーナさん、いらっしゃいますか!」


 愛しのセレーラさんではないか。

 普通の相手だったら蹴り飛ばしてお帰り願うところだが、セレーラさんであれば願ってもない。

 ご褒美のちゅーをもらって以来、セレーラさんとまともに話しができていないし。なぜか顔を真っ赤にして逃げてしまうのだ。


「おはようございます、セレーラさん。こんな朝早くにいったい──」


 しかし招き入れた今日のセレーラさんは、ここ数日とはまるで逆だった。

 俺の挨拶をさえぎり、青い顔をして詰め寄ってくる。


「どういうことですの! なぜこんなことになりましたの!」


 どうやらここまで走ってきたようで、呼吸も荒い。

 なにかとてつもないことが起きたようだが……俺たちにはとんと心当たりがない。


 水晶ダンジョンから帰ってきてからは、疲れを癒やすためにニケとルチアとゆっくりイチャイチャしてベタベタして、盛り上がりすぎて疲れ果てていただけだ。


「どうしたのだセレーラ殿、そんな剣幕で」


 首をかしげる俺たちのあいだを、セレーラさんの鋭い眼光が行き来する。そうしてから大きく息をはいた。

 そこには安堵の成分を強く感じられた。


「知らなかったのですわね、皆さんも……」


 まとう空気をやわらげたセレーラさんはそう言って、窓際へと歩を進める。


「ごめんなさい、朝早くから不躾ぶしつけに。ですが非常事態ですの。こちらにいらして」


 ベランダの戸が開けられ、快晴の空が目に飛び込む。


「僕の心のように澄み渡ったいい天気ですねー」

「笑えないたわごとを言っている場合ではありませんわ。あちらを」


 たわごとってひどくないかな……。

 まあ笑えないくらい状況が差し迫っているということだろう。俺の心が澄み渡っているのがたわごとであるはずないのだから。


 そう納得しながら、セレーラさんが指で示した方向を見る。

 ホテルに面した大通りの先、街の中心方向だ。


 下では多くの住民も、そっちの空を見てなにか騒いでいる。

 空飛ぶ魔物でも襲来して、街が滅茶苦茶になったりしているのかと思いきや……。


「……なにもなくないですか」


 特別おかしなものは発見できなかった。

 このホテルは五階建てで、周囲にはこの高さの建物はほとんどないので遠くまで見渡せるんだけど。


 目立つのは三階建てでありながら、背の高いダイバーズギルドくらいだ。一階とか特に、天井高いからな。


「マスター……ありませんね」

「だよな」


 妙に声が硬いが、俺を抱えるニケも賛同した。


「ち、違う、主殿…………ないんだ」

「うん? だからないよね?」


 ルチアが震える声で否定するのがよくわからない。俺もないと言っているのに。


 本当になにもないのだ。

 街に異常はない。

 雲一つない青空は、どこまでも続いて──?


「あ………………ないな」


 なかった。


 昨日まで天をいていた、輝ける水晶の塔が。



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