2-14 閑話 女子会(殺伐) 1




「マスター……」


 培養層の前に立ち、ニケ殿が中にいるシンイチを心配そうに見つめている。

 すでにシンイチが眠りについて五時間ほどが経っているのに……彼女の愛の深さには恐れいるばかりだ。


「ニケ殿、もう夜も更けた。そろそろ休んだ方がいい」

「……そうですね。私はここで休みます。ルクレツィアは寝所に行って構いません」

「わかった、そうさせてもらう。先に風呂を使わさせてもらってもいいか」


 ニケ殿が頷くのを見て、私は部屋をあとにした。




 体を洗って湯船に浸かると、自然に息が漏れた。


「ふーっ……相変わらず贅沢な風呂だ」


 これほど立派な風呂は、実家であるオイデンラルド伯爵家の本邸にもなかった。

 しかもこのお湯には、上位の生命水と魔力水が使われているのだ。

 そのお湯が、あやかし(テングとシンイチが呼んでいた)を模した面の鼻先から、止むことなく風呂に注がれている。ちょっとこのセンスはよくわからない。


 こんなことを知れば、生命水を作っている回復魔術師は卒倒するだろう。いや、回復魔術師でなくとも。

 実際私も、初めはめまいがしたものである。

 そしてそれだけでなく、シンイチの持つスキル〈研究所ラボ〉には驚異的な能力が備わっている。


 ……シンイチ。不思議な男だ。

 異世界から来た、聖国の元勇者。私を買った男。

 そして……。


 私は一度頭まで湯船に潜った。


「ぷはっ…………〈ステータス〉」


 浮かび上がった私の目の前に、半透明の板が現れる。それを見ると、いつも笑みがこぼれてしまう。

 自嘲の笑みが。

 そこに書かれている内容が、私そのものだから。






 夜が明ける前にベッドから起き上がった私は、身支度を終えた。

 ベッドルームを出て、リビングとして使われている部屋に入る。わずかな明かりの中、壁に描かれているシンイチの故郷にあるという山の絵を一度眺めた。


 美しい山だ。

 本物を見せてやりたかった、とシンイチがどこか寂しそうに笑っていたのを思い出した。


 きびすを返し、人が近づくと自動に開くドアを抜ける。

 玄関ドアを開閉させるスイッチに触れたとき、リビングの明かりがついた。

 後ろから私に、涼しげな声がかけられる。


「どこへ行くつもりですか」


 もう起きたのか……違うか、きっと眠っていないのだろう。

 私は振り返らずに答えた。


「早く目覚めてしまったからな。少し外の空気を吸いに行こうかと」

「マジックバッグを持ってですか」


 わずかな静寂。

 次の瞬間私の脳に熱が走る。

 〈直感〉が発動したことを認識する前に、私はその熱に促されるままに体をドアの外へと踊らせた。

 素早く体勢を立て直して振り返ってみれば、ニケ殿が振り抜いた拳を納めていた。


「ニケ殿、何をする!」


 我ながら白々しい。

 逆光で見づらいが、ニケ殿は美しい顔にいつも通り感情の読めない表情を張りつけていた。


「もう一度尋ねます。どこへ行くつもりですか」


 答えない私に苛立ったのか、ニケ殿はため息を一つついてドアの外へ出た。

 瞬きする間に、その手足にはシンイチが作った籠手とすね当てが装着されていた。無限収納とは便利なものだな。


 私は腰の後ろに手を回して、マジックバッグから剣と盾を取り出す。


「あれほど錬成人となることを熱望したのは、マスターの元から逃げ出すつもりだったからですか」

「……否定はしない」

「なぜと聞いても?」

「忘れられない相手がいる」


 そして、忘れられない思いがある。


 端正な顔を歪め、ニケ殿が吐き捨てるように口を開いた。


「そうですか。貴女のような人が己で力を磨くのではなく、他者から与えられる力を求めたことに違和感を感じはしていましたが……腐っても貴族の子女というわけですか。腹芸ができないわけではないようですね。最近貴女の様子がおかしくなければ、危うく私も騙されるところでした」

「ニケ殿と戦いたくはない。黙って行かせてくれないか」


 ニケ殿と戦いになれば、無事にはすまないだろう。

 それに、彼女のことは決して嫌いではない。


「断ります。貴女がいなくなれば、マスターが泣いてしまうので」


 話は終わりだとばかりにニケ殿が一気に間合いを詰める。

 やはり速い! それに……重いっ!

 回し蹴りを受け止めた盾が鈍い音を響かせ、衝撃に腕が痺れそうだ。

 流れるような動きで位置取りを変えながら反転。今度は逆の足が槍のように伸びてくる。

 それもなんとか盾で弾くと、次は裏拳。


 間髪入れずに繰り出される拳と蹴りに、反撃の機会が見いだせない。

 だが、それでもついていける!

 この力さえあれば、私は……!


 焦れてきたのか、ニケ殿が大きく構えを取った。

 両手を引いた準備動作を見て、とっさに私もスキルを発動させる。


「衝破」

「バッシュ!」


 衝撃を貫通させる格闘アーツを、盾のアーツで打ち消し、押し返す。

 ニケ殿は体勢を崩したが、私の剣は脇を掠めるだけに終わる。追撃をする前に、ニケ殿は後ろに跳躍した。


「大したものです。ですが、その力を与えてくれたのはマスターです。考え直しなさい、貴女はマスターのものです」

「〈獣化〉」


 獣人に思うところはない。

 だが、それでもこの姿は好きになれない。


「ストーンブレット」


 私の剣先から放たれた岩塊は、ニケ殿の雷撃に粉砕された。やはり魔術勝負では勝ち目がないか。


「貴女では私を倒せません。諦めなさい」


 ニケ殿の右目が妖しい金の光を放ち、途端に私の体が重くなる。

 これは……〈竜の威光〉か! 私の高いMND値を貫通して効かせてくるなんて、格の高い魔眼だけある。


 再び飛び込んできたニケ殿に対し、ならばとこちらも〈先見眼〉を発動させる。

 目線、筋肉の動き、体の流れ、ニケ殿の細部にいたるまですべての情報が、頭の中に流れ込んでくる。彼女がどう動こうとしているのか、手に取るようにわかる。

 すごい。これなら私の動きが多少遅くなろうと対応できる。


 この魔眼が、盾職に最も有益だと誰かが力説していた理由がよくわかる。

 あれは誰だったか……なんて、ふふっ、忘れられるはずもない。


 ──その名を反芻はんすうしてしまえば、もう抑えがきかなかった。

 枷を突き破り、一気に膨れ上がる。


「私だって……」


 拳を盾で受け、当たるはずもないことがわかっていても、何度も力任せに剣を振るう。


「私だって、あきらめられるのであればあきらめている! 忘れられるのであれば忘れている!」


 言いたくなかった。知られたくなかった。

 でもこの思いをどこかにぶつけなければ、狂ってしまいそうだった。


 隙を突かれ蹴り飛ばされて転がっても、はいつくばった姿勢のまま、激情を大地にぶつけた。

 叩きつけた拳が地面を陥没させ、土ぼこりが舞い上がる。


「でも駄目なんだ! どうしても忘れられない! 私の班に偵察を命じたにやけた男の顔も、私の腕を斬った仲間だった騎士の顔も、私を馬から蹴り落とした部下の顔も、どうしても忘れられない!」

「ルクレツィア、貴女は……」


 脳裏にこびりつくめられた日の記憶。

 あのときの奴らの表情を忘れたことはない。放った一言一句、忘れたことはない。

 敵の眼前で傷つけられ置き去られた恐怖と絶望は、忘れたくとも忘れられない。


「一度はあきらめたはずだった……奴隷へと落ち、もはや人並みに生きることもあきらめた。それならば最期は己の生き方に恥じぬよう、主となる者に忠誠を誓い死んでいこうと開き直りもした。だが……」


 体をもとに戻してもらえると聞いたとき、力を得られると聞いたとき、再び欲が湧いて出た。


 復讐という、私の身を焦がす甘美な欲が。

 その欲は種火となり、枯れ葉だった私に燃え広がってしまった。


「私だって、あなたのように真っ直ぐにシンイチだけを見ていたかった。そうできればどれほど幸せだろうかと。色欲に溺れれば忘れられるかとも思った。それでも……駄目だったんだ。私の内で獣のように荒れ狂う怒りも、憎しみも、消えてくれないんだ!」


 この姿は好きになれない。

 まるで私の醜い心の内を形にしたようで。


 いや、私の醜さはこんなに可愛らしいものではない。


「……ニケ殿。私が錬金を終えたとき、この姿だったことを覚えているか」

「覚えていますが、それが?」

「おそらく獣人状態が私の基本の姿なのだと思う。そうなると、私に〈獣化〉というスキルがあることに少し違和感を感じないか」

「……人化した際に戻るためだけではないと?」

「ああ、それだけではなかったんだ」


 顔を上げ、立ち上がった私は決意する。

 これは使いたくなかった。スキルの内容を他者が知ることができないのをいいことに、二人に伝えなかった。伝えられなかった。


 ──シンイチには、知られたくなかった。あまりに醜い私を知られたくなかった。


「何をする気か知りませんが」


 これまで離れて私の話を聞いていてくれたニケ殿だったが、私に異様な雰囲気を感じたのか足を踏み出した。

 そこにアーツを放つ。


「シールドスロウ」


 投げつけた盾はあっけなくかわされるが、アーツの効果で戻ってくる。

 私はそれを掴み、再び投げつける。アーツでもなく盾を投げるという愚行に、さすがのニケ殿も驚き、足を止めて拳で弾いた。

 そのまま彼女が手を突き出して魔法を発動させようとしたのを見て、私は剣すらも投げつけた。


 もう必要ないのだ。人が使う武器など。

 私は今から、一匹の獣になる。


「〈獣化〉ァァア!」



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