8-31 閑話 獣欲 〜命の価値は〜 2



 僕たちを逃がしてくれる……?

 もしかして、そのために仲間たちを追い出したのか?


 僕たちへの憎しみがどれほどのものか悩んでいるというルクレツィアが、その胸の内を話し始めた。


「脱走騒ぎまで起こしてしまった手前、私自身引っこみがつかなくなっているだけではないかと……本当はもう、憎しみの大部分が風化してしまっているのではないかとな」


 脱走騒ぎというのは、僕たちに復讐するためということだろうか。

 詳しく話す気はないようで、ルクレツィアはそのまま続けた。


「だがお前たちを前にしたときにわかった。そんなことはないと。私の憎しみはなんら変わることなくここにあった」


 そう言って自分の胸を押さえる。だったらなぜ見逃してくれるだなんて……。


「ただな……ふっ、私もぜいたくになったものだ」


 意味のわからないことをつぶやき、ルクレツィアが剣を抜く。


 なんて美しい剣……。

 ひょっとして神鋼オリハルコンでできているのだろうか。乳白色の剣身を派手すぎない装飾が優美に飾り、機能美にあふれた流線形のフォルムを際立たせている。

 伝え聞くところの、かの神剣を彷彿ほうふつとさせる神々しさだ。


「お前たちには、ある部分では感謝している」


 よほど気に入っているのだろう。

 ルクレツィアは何度も角度を変えて眺めてから、大事そうに静かに鞘に収めた。


「帝国にいたころ、私は自分一人でも強く正しく生きていけると思っていた。アドラスヒル様にもたしなめられていたが……そう生きていくのだと考えていたんだ。今にして思えば、その傲慢ごうまんさがお前たちにうとまれる原因にもなったのだろうな」


 自戒の念からか、表情が引き締まる。自分に厳しいルクレツィアらしいというか……。


「そしてその結果、私は自分の力ではどうにもならない流れに飲まれた。お前たちに傷つけられ、敵に捕らえられ、奴隷にまで堕ちた。そんな中でも手を差し伸べてくれる人がいて……あいつに救い上げられた。そうして自分がいかに弱く、幼かったかを知った」


 つまり己の未熟さを知ったことに対して、皮肉を含めて逆説的に感謝していると言ったのか。

 ……てっきりそう思ったが、なにか様子が変わってきた。


「だからこそ私は男女の正しい手順など飛び越え、出会ったばかりのあいつに、この身をゆだねられたのだ。考えるのではなく、感じるがままに」


 引き締まっていたルクレツィアの表情が、見る見るうちに溶けていく。目尻が下がり、口もとも緩む。

 さらに昔より豊かさを増した乳房を持ち上げるように、自らの体をかき抱いた。

 そうしてそのときのことを思い出しているのか、ゾクゾクと体を震わせている。


「信じられるか? 家からは捨てられ、片目も片腕もなく傷だらけ、ボロ雑巾同然の……お前たちにしてみれば『無価値な私』をあいつは求め、宝物を扱うように抱いたのだ。何度も、何度も」


 厚みのある唇は、どれほど男と重ね合わせてきたのか。男の代用品として左手の小指をついばみ、その隙間から湿った熱い吐息を漏らす。

 引き締まっていながらも女を強調するくびれた腰が、なまめかしくくねって男を誘う。


「それまで男に肌も晒したことがなかったのに、あいつと同じだけどころか、それ以上に高みに連れていかれてしまってな……自分のノドからあんな声が出るなんて、信じられなかったぞ」


 右の手掌で爪を立てるようにして自分の乳房を掴み、高く細い、声にならない声を口内で響かせた。

 そのときの声はこんなものではないと、挑発的な流し目が妖しく光る。


 これがあのルクレツィアか……?

 恍惚の表情を浮かべる淫魔のような女が、高潔だったルクレツィアと結びつかない。

 あんなガキ相手ということは信じがたいが、間違いなくその体は男を知っている。


 醜く、どこまでも堕ちているその姿は……そうだ、ずっとずっと見たかった姿だ。

 この手であばきたかった、雌としての本性だ。


 だがそれは、想像を圧倒していた。

 今まで見てきた女の誰とも比較にならないほど、劣情をもよおさせる。足りていないはずの血が、下半身に集まっていくのを感じてしまう。

 命を失うかどうかの瀬戸際であり、それどころではないはずなのに……。


 あれほど打ちひしがれていたヤルスすら、僕と同時に生つばを飲んだ。

 それを見て、自分の乳房を見せつけるように揺らして遊びながらルクレツィアがわらう。


「ふふ……男はいいものだと、自分が男を教えてやると言っていたのはヤルスだったか? いや、皆が似たようなことを言っていたか。ああ、たしかに男はいいものだな。ずっと女の体であることをうとましく思っていた私が、女に産まれてよかったと心から思うことになるとは夢にも思わなかった。無論お前たちのそれでは、そうは思えなかっただろうが」


 僕はどうかしてしまったのだろうか……妖艶でありながらも冷たい表情で見下され、男としてあんなガキ以下だと小馬鹿にされ、ますます下半身がいきり立ってしまう。


 僕の知らない僕を目覚めさせたルクレツィアが、どこ吹く風で軽く息をはく。


「ただな……あいつは基本的に激しいのだ。いや、今でも毎日夢中になって私を求めてくるのはうれしいし、私としても嫌いではないというか、むしろ好きではあるのだが……たまには、な? 優しく甘く愛されたいと思うこともある。そんなときは、お前たちの出番だ」


 どういう意味だ? なぜそこで僕たちが……。


 困惑する僕たちを楽しむように少し間を置いてから、ルクレツィアは口を開いた。


「初めのころはふとお前たちのことを思い出してしまった日は、忘れるために自分から迫ってしまっていたのだがな……それを何度か繰り返していたら気づいたのだ。そんなときは暗い思いに囚われた私を慰めるために、あいつはとても優しくなると。だから優しくされたいときは……わかるだろう?」


 それって……そのときは僕たちを思い出すってことか⁉

 なっ、なんだよそれ……僕たちへの憎しみが、あのガキにただ優しく抱かれるための呼び水でしかないのかよ!


「感謝する。お前たちの存在はとても役に立った」


 感謝って、そこに……?

 憤りと失望のような思いがないまぜの、この感情をなんと呼べばいいのか……鎧さえ着ていなければ、きっと血が出るまで胸をかきむしっていた。


 そんな僕たちに構うことなく、ルクレツィアはなんともなしに淡々と続けた。


「結局お前たちへの憎しみなど、始めからその程度でしかなかったのだ。一人で生きていこうとしていた私にはその憎しみは大きなものに感じられていたが、今は仲間がいて……愛する者がいる。私に生まれた想い、与えられた想いと比べれば、そんなもの大安売りのなまくら剣ほどにも気にかからない」


 その言葉と対比させるように、腰に下げた美しい剣の柄をポンと叩いてさらに続ける。


「それよりお前たちがいなくなってしまうと、どうやって優しく抱いてもらうか困ってしまうのだ。優しくしてくれなんて、自分からはとても言えないからな」


 もう、なにを思えばいいのかわからない。

 ただ……恥ずかしそうにほほをかくルクレツィアに、なにかを壊されてしまったのは確かだ。


「だから、お前たちも死にたくないだろうし、ここは隙を突かれて逃げられたことにしようか。もちろんお前たちが知る全てを話してもらうことは条件だが、あとはそうだな……騎士団もやめ、どこか地方に居を移せ。ここで死ぬよりよほどマシだろう? うん? どうした、助かるんだぞ。うれしくないのか?」


 そう言ってかわいらしく首をかしげられても、価値がからっぽの僕たちからはからからに干からびた笑いしか出てこなかった……ははは…………。





「──なるほどな、そういうことか。ふむ……知りたかったことはだいたい聞けたか」


 マジックバッグから取り出した高価そうなイスに腰かけていたルクレツィアが、あごに当てていた手を下ろした。


 ルクレツィアを襲った背景の子細しさい、今回の大樹海への遠征、現在の騎士団の様子、その他諸々を尋ねてようやく満足したようだ。

 とはいえ僕たちが知っていることなど、大して多くなかったが。


 遠征のことなんて目的がドワーフだということも一昨日知らされたばかりだし、なぜ黒鉄である僕たちが出ることになったのかも知らない。

 その点については、ルクレツィアのほうが心当たりがありそうだった。


 ただ、これまでジミエンと組んであくどいことをやっていたヤルスは、洗いざらいはかされていた。

 ルクレツィアを襲う命令の背後にアドラスヒル様がいるというのも、僕とラッセルはジミエンから聞いたヤルス経由で知ったのだ。


「だ、だったら、これで俺たちは」

「ああ、逃してやるつもりだが……しかしまいったな」


 恐る恐る確認したヤルスに対し首を縦に振ったものの、ルクレツィアはその顔をしかめていた。


「ど、どうしたんですか」

「いや、今考えると調子に乗ってお前たちに少し話しすぎてしまったと思って。これまで誰にも言えなかったから、ついな……」


 僕たちを利用して、あのガキに優しく抱かれていたという話か。

 イスから立ち上がり、ルクレツィアは落ち着かない様子でうろうろと歩き出した。

 ルクレツィアにとってそれは大ごとなのかもしれないが……どうでもいいから早く解放されたい……。


「誰にも言わない……約束する」


 まさに精根尽き果てている様子のラッセルは、この一日で一気に老けたように見える……きっと僕もそう見えるのだろう。


「本当か? 私たちはこの先、帝国にも行くことになりそうなのだが。あんなことシンイチに知られたらと思うと……」


 揃ってうなずく僕たちを見て、ルクレツィアが考えこんでうーんとうなる。

 やがて顔を上げて溜め息をついた。


「ハァ、仕方がないな。優しくされるには別の方法を考えるか」

「それはどういう──」

「こういうことだ」


 プスリと。

 目にも止まらぬ速さで抜かれた剣の先が埋まったのは──ラッセルの額。


「すまん。お前たちなど信用できないし、やはりこれがよさそうだ。もしシンイチが知っても許してはもらえるだろうが……恥ずかしいからな」


 ああ……そうか。

 結局、そんな理由で殺されるのか。


 身に染みたよ。

 僕なんてどこまでいっても、あなたにとってその程度だ。


 マリエラ、キミの所に帰りた────


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