2-15 閑話 女子会(殺伐) 2




 体がきしむ。

 骨が、肉が、悲鳴を上げる。

 違う、これは解放を求める叫びだ。


 腕は太くそれよりもなお長くなり、足は奇怪に折れ曲がり人のものではなくなった。それらが髪色と同じ深紫の毛に、びっしりと覆われる。

 シンイチが美しいと褒めてくれた姿勢も、獣のように背筋が丸くなり、重たい腕がだらしなく垂れ下がってしまっては見る影もないだろう。


 醜く禍々しい獣の手足。

 剣ばかり振ってきた私には、それがキツネのものなのかウサギのものなのかなどわかりはしない。


 わかるのは、もはや人とは呼べないこの姿がお似合いだということだけだ。

 進化の先に復讐するための力を求めた、愚かな私には。


「それが貴女の奥の手というわけですか」

「時間は限られているが、なっ」


 長く太い爪で大地を削りながら、跳ねるように駆け出す。どれほどの前傾姿勢でも倒れない強靭な脚を頼もしいと感じる私は、心まで獣となってしまったのだろうか。


「ッラァ!」


 ニケ殿に迫り寄り、地面ごとすくい上げるように腕を振るう。

 私の速度に対応できなかった彼女は驚愕に目を見開き、短い悲鳴を上げた。かろうじて防御したその姿勢のまま宙を舞う。


 追いすがる私の口から出るのは獣の咆哮。

 そのままニケ殿を落とさぬように二度、三度とかち上げた。


 木の葉のように舞い上がりながらも、急所だけは防ぐ反応には舌を巻く。

 だが、これなら勝てる!


 獣の脚をバネのように縮め、天地が反転しているニケ殿に向け解放する。

 体を丸めて芯を守るニケ殿の腕と脚からなる門戸を、獣の槌が強引に突き破り、腹部を捉えた。

 瞬間くの字に折れ曲がり、吹き飛ぶ。

 大木をへし折っても止まらず、彼女は林の暗闇に飲み込まれた。


 手応えはあった。

 無論ニケ殿を殺したいわけではないし、必要以上に傷つけたくもない。引いてくれればそれでいいのだ。これで終わってくれればいいが……。


 様子を確認するため林に飛び込む──直前、私の脳内に熱が走り、とっさに飛び退く。

 闇から生まれでた稲光が私をかすめ、駆け抜けていった。


「力と速度がずいぶん増しましたね。もとからの反応の良さもありますし、思った以上にやっかいそうです」


 効いていないはずはない。

 爪によって肌は裂かれ、口もとには吐き出した太い血の筋が見える。

 だが、ニケ殿は苦悶の顔一つ見せずに林から歩み出てくる。


 またしても熱。

 立て続けに放たれる雷光を、こちらも雷光のように折れ曲がりながら避けて距離を取った。


「痩せ我慢も、そこまでいくと見事だな」

「マスターのためを思えばこそです」


 胸が痛む。ジクジクと血が染み出していく。

 私はきっと嫉妬しているのだ。彼女の在り方に対して。


「……もういいだろう? 私を行かせてくれ。これ以上あなたを傷つけたくはない」

「駄目です。どんな理由があろうと、貴女が逃げ出すことはマスターに対する明確な裏切りです」

「裏切るつもりなどない!」


 聞き分けてくれないニケ殿に一直線に飛びかかり、感情のまま右の手を振り下ろす。

 刹那、信じられないことに私はニケ殿の姿を見失った。


「なっ……あぐっ!」


 脇腹がもげたかと思うような衝撃。

 直感のおかげでなんとか肘を差し入れ最低限は防げたが、弾き飛ばされて暗い空と大地がぐるぐると回る。

 上下を見失いかけながらもなんとか大地に爪を立て、勢いを殺した。


「く……なんだ……それは」


 長い線を引いてようやく止まって見てみれば、ニケ殿の体に紫電が絡みついていた。こちらを脅すように、ときおりパリパリと空気を弾く音をたてている。


「知りませんか? 速度を上げる、身体強化の雷魔術を。まあ私のこれと一緒にしてもらっては困りますが」


 そうか……これがか。これがヒブラスがその身にまとい邪竜と戦ったという力か。


 おとぎ話の中の存在と相対しているという奇妙な感動に浸る時間は与えてもらえない。

 ニケ殿の体がぶれた。

 気づけば眼前にいた彼女から、ぶざまに転がって逃げる。


「裏切りではないなど、よく言ったものです。マスターを捨てようとしている貴女が」

「違う!」


 蹴りと蹴りがぶつかり、互いに反発し弾かれる。

 速さで勝てないなら、力で勝負するしかない。ここで離されるわけにはいかない。

 そう思い、すぐに体勢を立て直して掴みかかる。だが逆に腕を取られ投げ飛ばされ、私は地面に叩きつけられた。


 起き上がろうとしたところに、光の尾を引く足。まともに腹にくらい、口から吹き出した血がニケ殿の顔を汚す。


「いったいなにが違うと言うのですか!」


 ニケ殿の怒りを体現するかのように、その身に纏う雷は光りを増していく。

 かろうじて打ち合えていたのは最初だけ。

 雷速の猛攻を捌ききれなくなり、幾度も打ち据えられていく。

 痛み以上に驚愕の念が浮かぶ。

 獣化は私の奥の手だったのだがな……やすやすと越えられるのか。


 ……頭ではわかっている。

 ニケ殿の言っていることは正しい。シンイチに許可も得ずに離脱しようとしている私は、まさしく裏切り者だ。

 それがわかっていても、私は止まることができない。


 背中にまで痺れが到達するような重い拳をどうにか受け止め、冷たい怒りに満ちた目をにらみ返した。


「だったら……だったらどうすればいいというんだ! こんなヘドロのように溜まった憎しみを隠しながら、シンイチと接し続けろと言うのか!」


 シンイチの顔が思い浮かぶ。

 笑うときも怒るときも飾らず明け透けで、いつも私を気づかったりからかったり、兄のような、弟のような人。


 出会ってからの時間は短いが、もう彼は私にとって掛け替えのないひとだ。私がこれまで得ることのできなかった、掛け替えのない家族だと思っている。

 そうであれたらと……願っている。


 だからこそ、これ以上耐えられない。

 私の奥にいる獣を見つけてしまうのではないかと、怯えながら彼と目を合わせることに。


「もう無理なんだ! この怨みを払わなければ、私は彼の顔を真っ直ぐ見ることもできない! こんな醜い私には、純朴な彼に愛される資格などないのだから!」


 ピタリと動きを止めたニケ殿から、力を振り絞り跳躍して離れる。

 自分の荒い息が耳にうるさい。まるで死にかけの獣だ。〈手負いの獣〉など、当たらねばなんの意味もなかった。


 呼吸を整えた私に、続けろとニケ殿は目で訴えてくる。


「……消せるものなら消したい。だが果たさねば消えないのだ、この醜悪な怨みは……だから私は復讐を果たす。そして必ず戻ってくる。そのときは煮るなり焼くなり好きにしていい。彼が死ねと言うなら喜んで従おう。そして、もしも……」


 それはありえない願いかもしれない。それでも口からあふれてしまう。


「もしも許してくれるのであれば、汚れた私に仕えさせてもらえるのであれば、今度こそ本当に生涯の忠誠を誓おう」

「それは本心からの言葉ですか?」


 なんてズルいんだ、私は……己の口で言えないから、ニケ殿を通してシンイチに伝わって欲しいと思ってしまっている。


 それでもこれは心の底からの、偽りのない真実の言葉だ。

 いぶかしげな表情を浮かべるニケ殿の視線から、目を逸らすことなく頷く。


「だから頼む、行かせてくれ。シンイチは錬金で強くなる。今私がいなくなっても大丈夫なはずだ。それに、新しく他の奴隷を買っても彼なら上手くやれるだろう?」

「やれませんよ」


 バッサリと切り捨てたニケ殿は、大きなため息をついた。


「貴女はまだ街でマスターと過ごした時間が短かいのでわかっていないようですが、マスターはそんなに器用な人ではありません。上手くやれているのは貴女だからです」

「私だから……?」

「マスターは人嫌いですから。マスターは貴女を大切に思うからこそ受け入れているのです」


 そう……なのだろうか。

 私が見るシンイチは、いつも人好きのする笑顔を見せているが。


「正直に言いましょう。ルクレツィア、私は貴女に嫉妬していたことがあります」

「ニケ殿が、私に?」

「話したでしょう。あの人は私を放逐しようとしていたのですよ。ですが貴女のことは自ら求め、縛りつけようとしました」


 初めて見るニケ殿の仄暗い瞳。

 そこには狂おしいほどの女の情念がこもっていた。


「それはっ」

「わかっています。マスターが私のためを思って私を手放そうとしたことは。奴隷として買われた貴女とは状況が違ったことも。それでも……」


 いったん言葉を詰まらせたニケ殿が浮かべた笑みは、自嘲によるものなのだろう。


「それでも、思ってしまったのです。私よりも、貴女のことをマスターは必要としているのではないかと。恐れたのです……私は捨てられるのではないかと。情けない話です。口では気になどしないと言っておきながら、私はマスターを信じきれていなかったのですから」


 一度私の獣の耳や尻尾に目を向けてから、ニケ殿は続けた。


「私が貴女の錬金に賛成したのも、貴女がどうなってもいいと思ったことが理由の一つであることは否定しません」

「ひどいな」


 ニケ殿の胸の内になど全く気づいていなかった私は、苦笑いするしかない。

 まれにニケ殿が私と張り合うような言動をしていたのは、不安だったからなのか。

 本当に心というのはままならないものだ。彼女ほどの人ですらそうなのだから。


「無論、今ではそんなことはありません。マスターは変わらずに私を愛してくれていますから」


 常に揺らぎなく立っているように見えたニケ殿の告白に、親近感が湧く。彼女のことをもっと好きになれそうな気がした。


 ──そして次の瞬間、私の丸まった背筋は凍りつく。

 ニケ殿の手には、いつの間にか一振りの剣が握られていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る