第1章

1「松ヶ峰聡を取りまく、煩瑣な事情」

第一話 あそこに舌を入れれば、あの影を飲み干せる

人が死んだあとは、煩瑣はんさな事務手続きの連続だ。

母親・松ヶ峰紀沙まつがみね きさの葬儀を終えたばかりのさとしは、広大な自宅広間で親族が飲み食いする「精進落しょうじんおとし」からこっそりと抜け出した。

大正時代に作られたという松ヶ峰家の本邸は、広間から長い廊下を抜けたところに家族しか使わない小さなキッチンがある。


聡は誰もいないキッチンで赤ワインをあおった。

一息に飲み干すと、聡のあごから首筋にかけてのなだらかなラインが灯りの下で影になる。

本人がまったく気づかない美しい曲線だけが、ひんやりとした四月の夜に浮かび上がった。


聡は続けてグラスにルビーのような赤ワインを注ぎたした。

飲まなけれりゃ、やっていられねえよ。そんなふうに思っている。

しかし聡ひとりの息抜きは、あっという間に華麗な男に邪魔をされた。


たまきちゃんを、広間にひとりで残しておくなよ」


軽い足音とともに、聡の親友であり秘書でもある楠音也くすのき おとやがキッチンに入ってきた。

学生時代からの二人の付き合いはもう十年以上になる。

音也のほっそりした百八十四センチの身体、手足が長く頭が小さい姿はモデルとして便利だったらしい。音也は学生時代から生活のために雑誌モデルで稼いでいた。


そして亡くなった松ヶ峰紀沙のお気に入りでもあった少年は二十七才となり、周囲がざわつくほど美麗な男に成長した。

いま、音也の長いほっそりした首には喪服のネクタイが巻きついている。

そのあたりの店でサイズだけを合わせて適当に買ったような喪服を着ていても、楠音也は騒がしいほどに人を引き付けた。


聡の記憶にある十六歳の時からずっと、音也はまわりにいるありとあらゆる人間に注目されていた。それを腹立たしく思う権利すら、聡にはない。

だからだ。

聡はカタンと音を立てて、カラになったワイングラスをキッチンシンクに置いた。

優美な女性をイメージさせるグラスは、ドイツのグラスブランド、シュピーゲラウのものだ。


今は亡き松ヶ峰聡の母が愛したグラスブランドは、女性的でなめらかな曲線と圧倒的な耐久力、そして「安さ」が特徴だ。

松ヶ峰紀沙は裕福な家庭に生まれてもっと裕福な男と結婚したにもかかわらず、名古屋の名流家庭の子女がもつ特性を六十二歳で亡くなるまで、手放さなかった。


つまりケチ。

つまり圧倒的な合理主義者。

松ヶ峰紀沙は堅牢で耐久性の高い物を愛した。長持ちしないものには金を使わず、そのかわり手の中にあるものは徹底的にメンテナンスして使いつくす「名古屋流のレディ」だった。

ちょうど今、聡がいる小さなキッチンが大正時代に作られた外形を残しつつ、内部だけがそっくり最新鋭に入れ替えられているように。


聡はもう一度、優美なワイングラス・ヴィーナスにたっぷりと赤ワインを注いだ。

ちなみに松ヶ峰家で使われているヴィーナスには二種類があり、フルボディの白ワインか軽めの赤ワインにつかうものと、しっかりした赤ワイン用に分かれている。

聡が手にしているものは本来なら軽めの赤ワイン用だが、聡の大きな手がつかんだワインボトルはボルドーのかなり重たい赤ワインだ。

おふくろが生きていたら、俺を部屋の向こうまで蹴り飛ばすほど、どやしつけるだろう。

聡はゆっくりと酔いが回り始めるのを感じつつ、目の前の親友に目をやった。


身長百八十四センチの音也は、ほぼおなじ身長の聡と並ぶとほんの少しだけ小さく見える。癖でわずかに猫背になるからだ。

こんなにきれいでこんなに頭の切れる男が猫背になる理由は何だろうかと、聡は音也を見るたびに考える。


聡が考えていると音也は長い指をわずかにえりに差し入れ、シャツの高い襟と、のどの骨のあいだに空間を作った。

音也の喉に、影がたまる。聡は思わずごくりと唾をのんだ。

あそこに舌を入れればあの影を飲み干せる、と松ヶ峰聡の喪服に包まれた筋肉質の身体が、きゅうくつなシャツの下で身もだえた。

しかしそんな聡にかまわず、音也の低い声が続く。


たまきちゃん、広間で“本郷ほんごう”のひとにつかまっているぞ。あのひとは飲むと話が長いからな。おまえ、助けに言ってやれよ」


と、松ヶ峰聡の有能な政治秘書はコンビニへ煙草でも買いに行かせるような簡潔な口調で、みじかくあるじにそう命じた。

そのあいだ、つややかな色気にみちた音也の身体は、微動もしない。

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