第百三十一話 たとえ世界じゅうが俺の敵にまわっても

いよいよ押し迫ってきた、次の衆議院の議員選挙。

そこに出馬しないということは、松ヶ峰聡まつがみね さとしにとってこの世で唯一ゆるされていない行為だ。

聡の選挙は、聡ひとりのものではない。

その背後には四代の松ヶ峰家をささえてきた巨大な後援会”吉松会きっしょうかい”があり、亡母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさが一生をかけて準備してきた強固な支持基盤、名古屋の上流婦人の集まりである”純白じゅんぱく”の巨大な票田ひょうでんがある。


これらの人々はただ一点、松ヶ峰聡を国政に出すという一点で、いま結束をしている。

そこには莫大な金とが存在し、聡はそれらをひとりで背負わねばならない。


なぜなら。

松ヶ峰聡は、松ヶ峰聡だからだ。

もはやどんな言いわけも逃げもかなわないほどに、聡はこの家と地盤と政治の世界に強固に結びつけられている。

たかが愛のために出馬しゅつばを取りやめるなどと言う世迷言よまいごとは、聡には許されないのだった。


聡にはそれが分かっている。

楠音也くすのき おとやにもわかっている。

音也はできの良い子犬を撫でるように、聡の頭を撫で続けた。

その指一本一本に、音也の十年にわたる愛情がこもっている。

聡を、愛しているとうたっていた。

それでも。聡は選挙に出ることをやめられない。

音也の低いバリトンが聞こえた。


「いい子だ。最後に俺を自由にしてくれて、ありがとう、聡」


そういうと、松ヶ峰聡の華麗な秘書は軽やかに立ち上がった。

青いチューリップをえがいたタイルの床にしゃがみこんでいる聡の目の前には、グレーのレザー素材でできた細身のパンツしか見えなくなる。

そして足音も立てずに、音也は部屋から出ていく。

次の瞬間、聡ははじかれるように立ちあがり、音也に向かって叫びあげた。


「そうかよ。じゃあこれから俺は、手当てあたりしだいに男と寝てやる。セックススキャンダルってやつを、自前で作ってやるよ!」

「サト」

「俺がスキャンダルまみれになれば、お前だって俺から離れる必要がなくなるだろ。俺が、どん底まで堕ちきればいいんだ」

「聡、おまえ何を言って――」


さすがに音也も“ブルーチューリップ”の部屋の入り口で足を止め、まじまじと聡を見た。

聡は美貌の親友をあざ笑うように口もとをひん曲げた。


「そうだな。まずはコンから襲ってやる。あのヤロウに俺を抱くだけの度胸があるかどうか知らねえけどな、ふんじばって俺がヤツをレイプするくらいのことはできる。その動画をネットで流せばいいんだ」

「さとし」

「それでも俺は衆院選に出るぜ。出りゃ、当選する。 “吉松会きっしょうかい”と“純白”と人間国宝のうしだてがありゃ、三位さんい当選だろうが補欠だろうが議員になれる程度の票はかき集められるだろ。お前はスキャンダル議員の秘書役から逃げられねえよ」

「言っていることがまともじゃない、聡」


さすがに音也も完璧な美貌を蒼白にして、つぶやいた。

聡は平板へいばんな顔のまま、音也に近づいた。その細くて長い首をおおうシャツの襟ボタンを、食い入るようににらみつけながら続けた。


「そうかもな。だが、俺はもう誰に何と言われようがかまわねえんだ。惚れた男を失くしたことを悔やみながら生きていくよりは、よっぽどいい」


とん、と聡は音也の肩に額をのせてつぶやいた。


「お前は、俺を捨てるなよ、音也」

「サト」

「俺がお前を捨てても、お前は俺を捨てるなよ。たとえ世界じゅうが俺の敵にまわっても、お前は俺をかばえよ」

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