第百三十二話 「今ここで、愛していると言ったら、反則か?」

さとしのひたいを広くしなやかな肩で受けて、楠音也くすのき おとやは静かに答えた。


「おまえが世界中を敵にまわすときでさえ、おれはお前をかばわなきゃいけないのか?おれがおまえの秘書だというだけの理由で?」


音也の声はすこしゆるみ、低いバリトンの底に、かすかな笑いの気配さえ感じられた。

くすっと、聡も笑った。


「お前は、俺の女房役だ。かばうに決まってんだろ」

「こんなに手のかかる亭主は、いらないぞ」


そっと音也の手が聡の頭にかかった。髪をなでる。


「この髪、もう少し切ったほうがいいな」

「このあいだ御稲みしね先生にも同じことを言われたよ。おまえと御稲先生は、どこか似ている」

「おれには、あれほどの度胸はないよ。ただおまえを守るという点では互角ごかくだな――いや、おれの方が強い」


音也はそう言って、肩の上に乗っている聡の頭に軽くキスをした。


「この髪は、明日おれが切ってやる」

「お前、カットもできたか?」


聡が不思議そうに言うと、音也は聡に耳に舌をわせながら笑って答えた。


「政治家の秘書はな、議員さまの頭のてっぺんから爪先まで、ぜんぶできなきゃつとまらないんだよ」


ふむ、と聡は考え込んだ。


「そりゃ便利だな」

「議会に出ること以外は全部、秘書の仕事だ。だからって世話を焼かせるなよ、センセイ」

「……うるせえやつだ」

「女房役だからな」


ふっと聡は額を音也の肩からはずして、じっと音也の咽喉のどから肩、胸をながめおろした。


「どこで買ったんだ、こんなシャツ」

「シャツ?」

「お前のクローゼットで、見たことねえぞ」

「……買ったんだ。東京の“ドリー・D”で」


聡は一歩下がって、音也のモデルのような長身をじっと見た。

今日の音也は、えりの高い真っ白なコットンシャツにチャコールグレーのレザーらしい細いパンツを合わせている。

シャツは襟が高くて小さなボタンがふたつ付いている”ドゥエボットーニ”と言うスタイルだ。


ドゥエボットーニは着こなしが難しいシャツのひとつで、ヨーロッパ人ならともかく、日本人の体形ではよほど首が細く長くて形が良くなければ、きれいに見えない。

音也はそのシャツを完璧に着こなしていた。

そのままセレクトショップの店員がつとまりそうだし、モデルとしても通用するだろう。


だが聡は、もう二度と音也に華麗な姿すがたかたちをりさせるつもりはない。

楠音也は、聡のものだから。

未来永劫みらいえいごう、聡だけのものだからだ。


「俺の知らないシャツなんて、着るなよ」


聡は、そっと音也のシャツのボタンに手をかけた。

夜の明かりに輝く小さな貝ボタンを、聡がひとつずつ、あけてゆく。


「俺の知らないパンツも靴もダメだ。俺の知らない煙草も、もうもらうな」


聡の手がゆっくりとシャツを開くと、音也の身体が夜の中に浮かび上がった。

しなやかな筋肉をつけた胸、腹、くっきりと影を落とす鎖骨。二の腕から肩にむかって筋肉がつながり、ぐるりと回って背中にいたっている。

聡が十日前にあとが残るほどに爪を立てた背中だ。

聡は食い入るように音也の身体を見つめてつぶやいた。


「今ここで、愛していると言ったら、反則か?」

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