第百三十話 この世のすべてを失う決心

まるで、すさまじいほどの愛情が十年かけて、楠音也くすのき おとやという男になりかわったかのようだった。

そして、そのものすさまじいまでの深い愛情を一身いっしんに受けていたのは、さとし自身だった。


どうしておれは、これほどの感情に気がつかなかった?

音也がかくしていたからか?

――ちがう。と、聡は思った。


聡は、気がついていた。

気づかないはずがない。押し殺しても隠しても、あふれ出してくるような愛情だ。

だが聡は、こわかったのだ。

松ヶ峰聡まつがみね さとしの住む世界に、まっこうからさからうことができなかった。

安穏あんのんとした黄金のまゆから踏み出すことが、できなかったのだ。


子供だったから、という言いわけは通るものだろうか。

いや、通らない、と聡は思った。

そんな言いわけは通らないから、今ここで、聡は音也を失おうとしているのだ。

音也は軽く頭を振り、目もとをぬぐって聡を見た。


「あのころのおれを助けてくれたのが、紀沙きささんだ。あのひとは、おれに気づいていた。だからおれに金をくれて、金以上のものも、くれた」

「金以上のもの?」


聡はぼんやりと音也の言葉を繰り返した。音也はもう一度笑った。

もう凄絶せいぜつさはない、かわりにもっと澄みきった表情だ。

この世のすべてを失う決心をした男の顔がそこにあった。


「おまえのそばにおれが居てもいい理由を、紀沙さんはくれたんだ。

高校を卒業してから東京で仕事を覚える。おれが使えるようになったら、紀沙さんはお前の選挙準備を始める。おれは、おまえの政治秘書としてそばにいられる。

その気になれば、一生をともにできる」

「秘書としてか」


ぽつんと聡は言った。どうしようもないほどに茫漠ぼうばくたる寒気さむけが、聡の全身をおおっていた。

聡のなかの空っぽの部屋は、月夜の砂漠のようにざらざらとしていた。


「それで、良かったのかよ。お前」

「他に選択肢はなかったさ。おれの思いつく限りでは、それが最善だった。

お前の近くにいられさえすればいいと思った。選挙に出て、勝って、お前は議員になる。いずれお前の隣に立つはずの女は、名古屋においておけばいい。

おれは議会があるあいだは、お前と東京で暮らせる」


トスっと、聡はタイルの床に座り込んだ。

仕立ておろしのブルーグレーのスーツをくしゃくしゃにして、頭を膝の間に突っ込んだ。


「俺は、いやだよ。そんなの」


聡が子供のように言うと、音也は聡のそばにしゃがみ込み、そっと髪を撫でた。

甘い、花のようなデューンの匂いが聡を包む。


「いやだ。俺はお前が好きで、お前だって俺を好きなんだろう。それでもう、いいじゃないか」

「だめだ」


甘い香りは、優しい声で冷たいことを言った。


「だめだ。おまえは政治家になるんだ、聡。政治の世界じゃあ、同性のセックススキャンダルは致命傷だ」

「じゃあ出馬しゅつばを―――」


やめる、と言おうとして、聡は大きなものでのどをふさがれた。

選挙をやめることはできない。

松ヶ峰聡まつがみね さとしには、選挙に出ないという選択肢は、ない。

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