第百二十九話 はなれて、いられなかった

ひんやりとした楠音也くすのき おとやの美貌は、まるで、いとおしむようにさとしを見ていた。

完璧な配置、完璧な造形。人が見とれるほどに美しい男は、なだらかな目もとにせつないような影を落として笑った。

これが最後だと言うように。


「おまえの話?おれはもう十分聞いたよ」


音也の声のおだやかさが、かえって聡のなかの何かのドアを開いた。

聡のなかの空っぽの静かな部屋から、音也に向かって吹き出してぶつかってゆくものがある。

それを恋情と呼ぶには、あまりにも聡は恋を知らない。


知っているのは、ただ音也の体温だけ。

長く、骨っぽい指だけ。


聡は力いっぱい音也の肩を引きよせ、歯がぶつかるほどの勢いで、音也のやや薄い唇にキスをした。

音也のくちに舌を押し込む。相手を犯すようなキスだ。

しかし聡の乱暴さは長く続かなかった。聡が引き寄せた音也の肩は細かくふるえつづけ、やがて、聡の顔を音也の涙が濡らしていった。

聡は思わず唇を離した。


「オト――泣いている?」

「なにが」

「だからお前、泣いてる」

「泣くわけないだろ。泣いてすむようなことは、これまでのおれの人生にはひとつだってなかった。生きるために――十四のときから、身体を売ってきた」


音也はうなだれたまま、足元の青いチューリップのタイルに向かってつぶやいた。


「高校に入っておまえを見て、初めてこの世には太陽のような男がいると知ったんだ。あたたかくて、まっすぐで、ただそこにいるだけでいい人間だ。

おれとはまるでちがう。こぎたない虫が明かりに吸い寄せられるように、おれはおまえに近づいた。はなれて、いられなかったんだ」


音也は言葉を切り、自分ではまったく気がついていないように、ぽたぽたと涙をこぼしていた。落ちた涙が、音也の足元にある青いチューリップのタイルをぬらしていく。

まるで、涙でチューリップがいきいきと咲き始めるかのような錯覚を、松ヶ峰聡まつがみね さとしはおぼえた。

音也のほそぼそとした声が、星くずが散り積もってゆくように夜の部屋を満たしてゆく。


「おまえから、はなれていられなかったんだ。離れていなくちゃ、いけないのに」

「オト」

「くるしかった。おまえはおれの頭の中なんか知りもしないで、どんどんこっちへ踏み込んでくる。おまえが来れば来るほど、おれは逃げなきゃならなかった」

「逃げる必要なんかなかっただろ。俺たちは、あのころから親友だった」

「そうだ、親友だった」


と言って、音也は泣きながら微笑んだ。これほど壮絶な微笑を、聡は見たことがない。

愛情がってたまのようになって、ほろほろと音也の頬を流れつづけていた。


「おまえを、くしたくなかったんだ。だから頭の中でだけ、何度も何度もおまえをったよ。なんでもないふりをしておまえの隣にいて、表情を記憶におさめて、一晩中お前のことばかり考えていた。

しまいには、ほんとうにおまえを犯して、死のうと思ったくらいだ」


ごくっと、聡の咽喉のどが鳴った。

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