第百二十八話 さびしいさびしいたんぽぽの綿毛

「…おれは、クビか」


楠音也くすのき おとやは、巨大な墓所のような夜の松ヶ峰邸まつがみねていでそうつぶやいた。

骨を感じさせる長い指は今も聡の頬でとまったままで、どうしても離せないというように、断固として聡の皮膚の上から動かなかった。

いとおしげに聡の頬の上に指を乗せたまま、音也の瞳がすうううっと細められた。


「おれなしで、この選挙に勝てるのか?」


音也がじっと聡の眼をのぞきこんだまま尋ねる。聡は音也の目の鋭さに、思わず足を後ろに引きそうになる。それを、ぐっとふんばった。

膝の震えを押しかくす。

聡と音也は高校時代からの親友だ。男どうしの親友のあいだには、強さの比較とプライドと、けんが抜きがたく存在する。


聡は、この世の誰よりも楠音也に負けたくない。

聡は音也を愛しているが、それとこれとは話が別だ。

たとえ聡が音也に骨の髄まで惚れていても、音也に負けることだけは、したくない。

惚れているからこそ、負けたくない。

聡はきつい視線で音也をにらみ返した。腹の底に力をこめて、強い声を出す。


「この選挙に勝てるかだと?勝てる。だいたい必ず勝てるように、てめえと死んだおふくろが十年もかけて準備をしておいたんじゃねえか。俺はてめえの用意したみこしに乗る。

お前が俺の背後で何をやっていようとかまわない。それが俺の、だからだ」

「仕事、な」


音也もうそぶくような声で聡に答える。


「おまえが選挙を”仕事”と、ぬかしているうちは勝てないぜ。おれと紀沙きささんがどれほど準備をしておいても、みこしに駄犬だけんを乗せたんじゃ勝てない」


音也の物言いに、聡はついかっとなった。

くそ、かまわねえ。

たとえこいつが俺の身体をあばいた初めての男だとしても、俺が俺である事実から引き離せない。

仕方がないじゃねえか。

おれは「松ヶ峰聡」だ。

世界中どこへ行こうと、たとえ夢の中に逃げ込もうと、聡自身がついて回る。そこから逃れることは、できない。

そして、聡はもう逃げたくない。


松ヶ峰聡は、名古屋で四代続いた政治の家に生まれた男だ。

プライド以前に、聡はまわり中の人間に対して責任がある。

後援会の”吉松会きっしょうかい”に、松ヶ峰の分家ぶんけに、聡を政治家として立たせるべく時間と労力をかけてくれたすべての人間に対して責任がある。

二十七年間、松ヶ峰家の黄金のまゆの中で生き延びさせてくれたすべての人に対して、れいくさねばならないのだ。


だから聡は、何もかもを捨てて別の世界に生まれ変わることも、何もしないでのらくらと現実から逃げることもしたくない。

それが。

松ヶ峰聡のやるべきことだからだ。

聡は、音也の冷たい視線に向かってきざみあげるように声をぶつけた。


「俺は駄犬じゃねえ。勝てる算段はしている。てめえがいなくても、この選挙には勝つぜ。だから、


ふっと、音也の目から光が消えた。

いつも聡の前では少し猫背ねこぜになる音也がもっと背を丸め、肩を落とした。

さびしいさびしいたんぽぽの綿毛のように。

あとは春風に吹き散らされていくのを待つしかない、頼りなげな綿毛のように。


「じゃあ、ほんとうにもうおれはらないんだな」


そういうと、音也はチャコールグレーの革素材らしいパンツのポケットに両手を突っ込み、歩き始めた。


聡はあわてて


「音也、どこへ行く」

「死ぬのさ」


さらり、と振りかえりもしないで楠音也はそう言った。


「おれはこの十年、松ヶ峰聡のためだけに生きてきた。おまえがおれを要らなくなったら死んでもいい。それが紀沙さんとの約束なんだ」


そういって音也はタイル張りの“ブルーチューリップ”の部屋から出ていこうとする。聡は思わず、親友の肩をつかんだ。


「なんだって、お前はいつも俺の話を最後まで聞こうとしねえんだよ!」

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