第百二十七話 ”ブルー チューリップ”の部屋

松ヶ峰邸まつがみねてい楠音也くすのき おとやが使っている部屋は、二階へ上がるらせん階段のすぐそばだ。さとしの部屋とは、木細工ぎざいくの廊下をはさんで、向かい側にある。


音也がその部屋を使っているのは、部屋の横に小さなタイル張りのスペースがあり、そこからテラスへ出られるからだ。

松ヶ峰紀沙まつがみね きさが生きているときの松ヶ峰家は常に禁煙だったから、聡も音也も煙草を吸おうと思ったらそのタイルの部屋を通り抜けてテラスへ行くしかなかった。


部屋の壁と床に張り付けられたタイルには、中国風の絵の染付がしてあったが、どういうつもりか、ところどころにブルーのチューリップをデザインしたタイルが混ざりこんでいた。

だから、このタイルの部屋は”ブルーチューリップ”と呼ばれている。


楠音也は、大正時代に作られたタイルに取り巻かれて、ひとり静かに立っていた。

聡が一階からバタバタと大きな音を立ててらせん階段を駆けのぼってきたのを見て、音也は何も言わずににやりと笑った。

まるで、十日間の不在などなかったかのように。


十日前、東京のコルヌイエホテルのスイートで聡の身体にいとおしげにふれくしたことなど、忘れはてたかのように。

楠音也はいつも通りの華麗な美貌のまま、松ヶ峰邸の“ブルーチューリップ”の部屋に立っていた。


やがて、音也の夜露よつゆにぬれかがやくようなバリトンの声が聡に尋ねた。


「タバコ、いるか?」


音也は、聡の返事も待たずにぽいと煙草のパッケージを放り投げてきた。

聡は思わず受け止める。今日の音也の煙草は黄色い箱にラクダの絵が付いているキャメルだ。

どうせ誰かにもらったのだろう。音也はもらい煙草でしか、煙草を吸わない。


聡は乱暴にキャメルのソフトパックを開け、煙草を取ってくわえた。そこへ音也がマッチで火をつけた。

音也の長い指のあいだで、オレンジ色の炎が踊る。

じゅっと聡の口元の煙草に火が付いた。


「…キャメルなんて、誰が吸っていたんだ」

「帰りの新幹線で隣に乗っていたオヤジがくれたんだ」

「知らないやつから煙草をもらったのかよ。大丈夫か?」


聡が思わず煙草を口から離してまじまじと見た。音也は薄く笑い


「もらったときは新品だったさ―――聡、やせたな」


すっと、音也の指が聡の頬を撫でた。

撫でられたところから、聡に火が付く。ゆらめくオレンジ色のマッチの炎のように。

そのゆらめきを押しつぶすように、聡は音也に向かって短く言った。


「音也。てめえはもう、自由にしてやる」


言葉とともに、ふううっと聡の唇からキャメルの煙が吐き出された。

音也の美貌がキャメルの青い煙の向こうでかすんでいる。

聡は、煙草を口からはずして指で持ち、あらためて同じ言葉を口にした。


「てめえはもう、自由にしてやる」


二度、同じ言葉を言われて音也の完璧に整った顔つきが、ゆがんだ。

まるで泣いているようだ、と聡は思った。

あるいは。

執行日を危うくのがれた、死刑囚のような顔をしている。

そして音也は、美しい。

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