2「松ヶ峰聡と風の行方」

第百二十六話 風の行方を追え

夜の松ヶ峰家まつがみねけは、開館時間の終わった美術館のように静まりかえっている。

たった一人でパーティから戻ってきた松ヶ峰聡まつがみね さとしは、誰もいない巨大な家から死者ししゃころものようにひんやりした夜気で迎えられた。


聡はため息をついて、ダークスーツのまま玄関横の選挙事務所に入る。

蛍光灯の明かりのもと、事務所移転用に荷物をまとめた段ボールが積みあがっているのがみえた。もうじき、松ヶ峰邸から駅前に用意した選挙用事務所に引越すからだ。

衆院選挙まで、あと三カ月半と見られている。

いよいよ本腰ほんごしを入れた選挙準備が始まるのだ。


そういえば、あの事務所は俺のいない間にコンと音也おとやが選んだんだっけ。


聡はスーツの内ポケットから煙草を取り出しつつ思った。一本くわえて、そのあたりに置いてあるライターで火をつける。

一人きりの事務所に、ゆらゆらと聡の煙草のけむりだけが立ちのぼった。


「コンのやろう、たまちゃんをかっさらっていきやがって」


聡は、叔父の病院の周年記念パーティが終わってから今野がわざとらしく言った言葉を思い出して笑った。


『あったまきちゃん、今日は着物だから歩きにくいですよね。俺が送っていきますよ』


あたふたとそう言って、今野は荷物を運ぶベテラン作業員のように手ぎわよく環を連れて消えていった。


『サト兄さん、すみません。明日の朝には戻りますので』


環が言いわけのようにそう言ったのを見送り、聡は苦笑にがわらいしながら、ひとりで巨大な墓所のような松ヶ峰邸に戻ってきたのだった。


「コンとたまちゃんか…」


ぽつんとつぶやいて、聡は天井まで上がっていく煙を眺めた。

ゆらゆらとのぼる煙の行方ゆくえを見ていた聡は、ハッとして立ち上がった。


煙が、一定の方向へ引きずられるように流れてゆく。

この巨大な松ヶ峰邸のどこかで窓があいて、風がきおこっているのだ。

ごくっと、聡の咽喉のどが鳴った。


この家の鍵を持っている人間は三人だけだ。聡と環と、音也おとや

楠音也くすのき おとや

聡はあわてて灰皿を探して煙草を押しつぶし、火が消えたのをしっかりと確認してから事務所を飛び出した。


広すぎる玄関ホールで立ち止まり、全身に鳥肌を立てて、風の行方を追う。

ひんやりとした風は、聡の頭上から流れ落ちてくる。

風は意志を持つもののように聡にまとわりつき、聡の良く知っている香りと、聡の知らない煙草の匂いを運んできた。


「あいつ、今日はどんな煙草を吸っているんだ」


らせん階段を一段おきに駆けあがりながら、松ヶ峰聡はつぶやいた。


音也がいる。

花のようなデューンの香りと、外国ものらしい煙草の匂いをただよわせた聡の最愛の人は、死んでしまった美術館のような巨大な松ヶ峰邸にいる。

確実に、いる。

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