第百二十五話 恋人の角度
華やかな名古屋ホテルのレセプションホールから廊下をへだてた小さな控室で、
控室の入り口ちかくで二人を見ている
今野は、たまちゃんに何と言った?
『キスだけだから』だって?
じゃあ、このふたりはもうキス以上のことまでしたのか。
ごくっと、聡は息をのんだ。
環は
それも聡の部下の今野によって。
聡は混乱したまま、小さな控室で繰り広げられている
環が、今野の腕の中でかすかにあらがうような気配を見せる。
「今野さん、ひとが……」
「俺が背中で君をかくしておくよ」
聡があっけにとられていると、今野はたしかに大きな背中で小柄な環をすっぽりとおおってしまい、太い首をかたむけた。
聡からははっきりわからないが、それは確実に、恋人どうしだけがもつ親密な角度だった。
やがてあわただしくキスを終えると、今野はそっと環の耳にささやいた。
「今夜は聡さんの家じゃなくて
「ええ。この着物を片づける必要がありますから」
「俺が送っていくよ。聡さんには俺からうまく言うからさ――そのまま、俺も泊ってもいい?」
「え、あの」
たまきちゃん、と今野は明白に欲情をにじませて環に言った。
「抱きてえよ。あれから十日も経っているんだ。もう、たまんねえ」
環が恥ずかしがってなにも答えないでいると、今野は明るく笑った。
「ほら、さっき環ちゃんがおばさまたち相手にがんばったからさ。ごほうびだよ」
「……誰のためのごほうびなんでしょう」
環がかわいらしく言いかえすと、今野はそっと環の頭をなでた。
「君のごほうびに決まっているじゃないか。俺は君の忠実なナイトだから、姫に逆らうことなんかしないよ」
ふふっと環の笑う声が聞こえたあたりで、聡は足音を忍ばせてその場を離れた。
ひとでごった返すレセプションホールに戻りながら、聡の耳には亡母の親友・
『女には、自分の男の前でしか出せない涙ってものがあるんだ』
たしかに御稲が見抜いたとおり、環は今野の前でだけは、環自身でいられるようだった。
では、松ヶ峰聡がありのままの聡でいられる場所はどこにある?
聡の目に、うすくうすく涙の膜がはる。
音也の吐息が耳元で聞こえて、体温が長い指の形になって聡の中にすべりこむ、何もない静かな部屋でなら。
そこでだけ聡は聡のままになり、音也とともに世界の呼吸音に耳をすませられる。
音也さえ、いれば。
今は居場所もわからぬ恋しい人が聡の腕の中に戻ってくれば、聡はあの部屋に戻れる。
だがそれは、いつのことだろうか。
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