第百二十四話 「勝ちましょうね、この選挙」

夏尾なつお夫人の声は、どこまでも柔らかく、どこまでもはんなりとしていた。

その声が、松ヶ峰聡まつがみね さとしの亡母をなつかしげに語っている。


「なにしろ、古橋紀沙ふるはしきささま―――ああ、つい旧姓でお呼びしてしまいますわ―――と言えば、わたくしども白鳳学園はくほうがくえんの卒業生にとっては、頼りになるお姉さまのような方でしたもの。

ご存命中は私が理事をつとめます、卒業生団体の”白鳳会はくほうかい”にも、なにかとご助力くださって…。

ご恩がえしと申してはおこがましいでしょうが、なにかお手助けをしたいと、わたくしもずっと思っておりました。ねえ、藤島ふじしまさま」


と、夏尾夫人の柔らかい声が、にぎやかなホテルのレセプションホールの喧騒に負けずに、環に話しかけた。


「勝ちましょうね、この選挙。

名古屋から松ヶ峰まつがみねの名を持つ国会議員を出すのは、私どもの責任ですわ。今日からは、”白鳳会”と竹水ちくすいの門下生の票はすべて、松ヶ峰さまのものだと思っていただいてかまいませんのよ」


夏尾夫人ののんびりした口調に隠された数字に気が付き、聡は背筋がゾクッとした。

聡の選挙区内にいる白鳳学園卒業生と日本画壇の重鎮・夏尾竹水なつおちくすい門下生の票すべてが、今この瞬間に松ヶ峰聡まつがみね さとしの陣営に

これで愛知二区の衆院選でトップ当選をするのに必要な十万票が、確実に聡の手に届くことになる。

亡き母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさと、野江のえ叔母のおかげで。


「ありが…ありがとう、ございます」


環が涙まじりの声でこういいつつ、深々ふかぶかと頭を下げているのが聡に見えた。聡も夏尾夫人に礼を言いたいと思うが、今はタイミングが悪い。


今は、女性たちの選挙戦の話だ。

そこでの選挙参謀は、頼りないながらも藤島環ふじしまたまきであり、聡は余計な口出しをしないほうがいい。

後から野江おばを経由して、夏尾竹水の元へあいさつにいく。それが、聡のとおすべき筋だ


いける。

この選挙、いける。


松ヶ峰聡の百八十五センチの身体に、ようやくエンジンがかかり始めた。

環の前から野江おばと夏尾夫人が立ち去り、どうしても涙がとまらない環を今野が忠実なナイトよろしくレセプションホールからつれ出したのを見て、聡もさりげなく席をはずした。

環をねぎらってやらねばならない。


だが、聡の兄らしいいたわりの気持ちは、レセプションホールからそっとぬけ出したあたりであっさりと裏切られた。

ホールを出た廊下のむこうがわ、”松ヶ峰医院五十周年記念パーティ”用に支度された小さな控室に、目元をハンカチで押さえる環と今野こんのの姿があった。


聡は賢明にも、あけ放たれたドアから控室に入る手前で足を止めた。

環の鼻にかかった声が聞こえる。


「すみません、今野さん…私、もう泣き止まなくちゃ」

「もう少し大丈夫だから。ほら、俺のハンカチも使う?…って、このハンカチ、今朝環ちゃんから持たせてもらったやつだけど」


今野がふざけたようにそう言うと、環も涙ぐみつつも笑い


「野江さまには、すっかり助けていただいて」

「あのおばさん、いい人だな。前は君をいじめるから”ヘビばばあ”なんて呼んだけど、悪かったな」

「そんなこと、野江さまには絶対に言わないでくださいね。あの方だって、サト兄さんのことは大切に考えていらっしゃるんです」


「そうみたいだな。俺は、松ヶ峰家の結束ってやつを甘く見ていたよ―――君は、その一員だからわかるんだな」

「私は松ヶ峰の御一族ごいちぞくじゃありません…あ…っ、こんのさん」

「ごめん。ひとりで戦っている君を見ていたら、たまらなくなっちゃって。環ちゃん、もういちど。キスだけだから」

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