第百二十三話 夏尾夫人

華やかな名古屋ホテルのレセプションホールで、翡翠色の着物をはんなりとまとった夏尾なつお夫人の声がのどかに続いた。

まるで正解を言った子供をほめるような柔らかい声だ。

決して声をあらげることなく、しかし何もかもを自分ののままにしていく”からくり”を知り抜いている女性の声だ。


「せっかく、紀沙きささまが長いあいだ丹精たんせいされた絵手紙のお教室ですものねえ。お休みされてはもったいない気がしますわね?わたくしのまわりのかたも、皆さま、再開を心待こころまちにしておられますし」

「そう…ですね。あっ、私ではおばのように水墨画をみなさまにお教えすることができないのですが…」

「だから、夏尾さまがいらしてくださったんじゃないの」


たまきの声の上に、聡の叔母・野江のえのイライラしている甲高かんだかい声がかぶさった。

環の背後にいる聡の部下・今野こんのの身体が、野江の声にぴりりと反応する。しかし環はわずかだけ身体をかたむけて、今野に『大丈夫です』と言うメッセージを送った。

それで一気にたけちそうな若い男の気配が、水を打ったように消えた。


聡は後援会幹部と話しながら、内心でにやりとする。なるほど、環はすでに今野の扱い方を覚えたようだ。

ふと聡は思う。

今野は環を守っているつもりで、実は環に守られているのかもしれない。

その証拠に、今日の環は野江からどれほどきつい物言いをされてもびくともしない。守るべきものを持っている母ネコのように。


「あのね、環さん。夏尾さまは、絵手紙教室の先生を代わってくださってもいいと、こうおっしゃるの。いっそお願いしたらどうかしらね」

「さようですか…お願いできればうれしいのですが」


環は話の早すぎる流れについて行けず、とまどいながら野江の声にこたえている。二人の声の仲介をするように、また夏尾夫人ののどかな声が聞こえた。


「いいんですのよ。ちょうど主人たくの父が絵をたしなんでいるものですから、聞いてみましたら手本を描いてもいいと申しますし。

わたくしも義父ちちから多少の手ほどきを受けておりますので、紀沙きささまのようにはまいりませんが、まねごとでよければ藤島ふじしまさまをお助けできますわ」

「あ…でしたらぜひ、お願いいたします。あの…そのお義父とうさまとおっしゃるのは…?」


環が無邪気にたずねると、野江がフン、と盛大に鼻を鳴らした。


「名古屋の日本画家で”夏尾なつお”さまといったら、”夏尾竹水なつおちくすい”先生しかいらっしゃらないでしょうが」

「なつお、ちくすい先生!」


さすがに環が大きな声を出した。

聡は自分も後援会幹部と会話しながら、ひそかに環の驚きを共有した。


夏尾竹水なつおちくすいと言えば、数年前に文化勲章を受賞した日本画の巨匠だ。

名古屋生まれで名古屋育ち、今なお名古屋に在住という日本画壇の中では珍しい位置いちの画家で、その繊細な絵柄から”美人画の神”と呼ばれている。


野江は、長年にわたって自腹じばらを切って美術関係のNGO団体を運営してきており、そのつながりでついに夏尾竹水のような大物画家の身内まで、聡の選挙陣営に引っ張ってきたらしい。


さすが、野江おばさんだ。


聡は内心で舌を巻いた。環も同様のようで


「野江さま…ありがとうございます」


と、ふかぶかと頭を下げた。

野江は太った顔をわずかに赤らめ、ますます盛大に鼻を鳴らしながら


「お礼を申し上げるのは、わたしじゃなくて夏尾さまへでしょう」

「はい、もちろんです」

「ああ、うれしいこと。これでわたくしも些少さしょうながら、亡くなられた紀沙きささまのご恩にむくいることができますわ」


夏尾夫人ののんびりした声がつづいた。

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