第百二十二話 ”純白”

松ヶ峰聡まつがみね さとしが、名古屋ホテルのレセプションホールで藤島環ふじしまたまきに近づいていく叔母の姿を横目でにらんでいると、その気持ちが伝わったかのようにさりげなく今野こんのが環の背後に立った。


まるでドラゴンから姫君を守る騎士のように。

聡の目には、今野の着ている安手のスーツが騎士の鎧のように見えた。


そのとき吉田と話していた叔父が不意に口をつぐみ、聡にかるく目くばせをした。少し離れていろ、と言う意味だ。

叔父と吉田は選挙のくわしい打ち合わせをしたいらしく、あまりにもデリケートな問題のため、立候補者本人である聡の耳に入れたくないらしい。

おそらくカネのからむ問題なのだろう。


聡は叔父にうなずいて、すっと身体を引いた。

選挙には金がつきものだが、候補者本人は、湯気を立てているような汚いカネに手を突っ込んではならない。それはどこまでも、背後にいる人間の担当だ。

まんいちにもになった場合、候補者をけがれから遠ざけておくための対策である。


本郷ほんごうの叔父は、そういう策に精通している。だから聡の亡父の選挙では、つねに叔父が背後にいたのだ。

聡は、それを黙って受け入れねばならない。

まわりに平気で汚れをかぶせる事ができる、穴の開いたような図太ずぶとい精神力も政治家に求められる資質である。


聡は、ホールのあちこちにいる後援者相手に一人ずつ立ち止まったり頭を下げたりして、少しずつレセプションホールのすみにいる環と今野のそばに近づいて行った。

しかしその間に、聡の叔母・野江のえも着実に環に近づく。


聡はいらだたしげに顔を上げて、ふと野江が一人ではないことに気がついた。

叔母のどっしりした身体の後ろに、翡翠色の着物をきた細くなよやかな女性の姿がある。

だれだ?と聡が目をそばめたとき、隣にきた後援会幹部から声をかけられた。仕方がなく、聡は環と叔母の会話に耳をそばだてつつ、でっぷりとした歯科医と話を始めた。


野江の、甲高かんだかい声が聡に聞こえる。


夏尾なつおさま、こちらが藤島環ふじしまたまきですの。環さん、夏尾さまは、なくなられた紀沙きさ義姉ねえさまの水墨画教室に通っておられた方でしてね。面識めんしきはおありかしら」

「はい、ぞんじあげております。たしか、千種ちくさのお教室にいらしたかたですね。

おばがなくなりましてからご無沙汰ぶさたしております。申しわけございません」


聡の斜めむこうで、環が頭を下げているのが見えた。

同時に、環の背後に控える今野が身がまえるのも分かった。

しかし今野が相手を警戒する必要はなさそうだ、と聡は思った。

”夏尾”と呼ばれた三十代半ばごろの女性は品がよくやさしげな口調で、育ちの良さがにおいたっていた。


富裕な家庭で育ち、富裕な男と結婚した女性。

聡の亡母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさと同じく、富裕なまま一生を終える女たち。

そしてほとんどの女性が名古屋の伝統ある女子校”白鳳学園はくほうがくえん”の幼稚舎に入り、短大まで白鳳だけで過ごして卒業した”純白じゅんぱく”と呼ばれる層である。


松ヶ峰紀沙の手で育てられた藤島環も彼女たちとおなじ白鳳学園の卒業生だから、”純白”の一員ということになる。

松ヶ峰家の出身である聡の叔母・野江ももちろん”純白”のひとりだ。おそらく夏尾夫人もそうだろう。


名古屋の上流階級を支えているのは、こういう女性たちだ。

彼女たちは年齢・世代にかかわらず、”純白”という強固な基盤でつながっている。

そして聡の選挙にとって多大な影響力を持つ確固たる女性票の多くは、その小さな世界に詰まっているのだ。

環にとっても聡にとっても、おろそかにできない票である。


夏尾と呼ばれた女性は、環に向かってゆっくりと話し始めた。


「ご無沙汰しております、藤島さま。紀沙さまのお教室がなくなってから、なかなかどなたともお会いできなくて…それでね、お教室を再開されるおつもりはないか、お尋ねしてみようと思いましたの」

「お教室の再開ですか?」


環の少し驚いた声が、聡に聞こえた。続いて、夏尾夫人の柔らかな声が


「あの、全部のお教室を再開される必要はございませんのよ。まずは千種ちくさ守山もりやま名東区めいとうくだけでいいんですの」

「…あっ、選挙区…」


環が、ため息のように声をあげた。

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