第百三十六話 夜の底で、二体の麒麟がひとつになる

楠音也くすのき おとやは、この世のものとは思えないほどに優しい手つきでさとしの前髪を払い続けた。

聡は音也のシャツに包まれたままの肩甲骨けんこうこつをつかみながら答えた。


「今日から先は、どんなことでも俺に言えよ。お前はもう、自由なんだ音也」


そうかと言う音也の声は、聡がこれまでに聞いたこともないほどに伸びやかで温かかった。


「そうか。これが自由ってものか。だけど世界中の自由がおれの手に入るとしても、おれはおまえのためにどんなものでも差し出すよ、聡」


音也はそっと聡の身体を抱きしめた。それから聡の背中を大きな手でおおうと


「聡。これから先は、おまえはもう二度とのことは気にするな。おれがすべて処理する。おれを信じろ」


聡の目の前に、親友の初めて見る笑顔があった。

一生に一度の恋を手中におさめた男の、晴れやかな顔が聡を見おろしていた。


「おれを信じろ。おれが必ずおまえをこの世のてっぺんへ連れていくから」

「あ。あ。行きたくねえよ、そんなところ」

「おまえが行きたくなくても、おまえはんだ。それが」


と音也は言葉を切り、もう遠慮もなく聡を責めさいなんだ。


「それが、松ヶ峰聡まつがみね さとしと言う政治家だ。おれがこの世で、たったひとつだけつかんだ夢なんだ。おまえはおれのなかの一番きれいな夢なんだよ」

「くそ。夢じゃねえ。わかってんのか、音也」


聡が言いかえすと、音也はすがすがしく笑った。


「あたりまえだ。今さら。夢に戻してたまるかよ」


音也の言葉を、聡は自分の悲鳴のような声の合間にかろうじて聞いた。

身体が、白熱している。

それ以上に音也の声を浴びた耳が溶けそうな熱を発していた。


快楽と信頼と愛情が、ひとつになって聡の体の中にあった。

聡が安心してその身を預けられ、未来をともに切り開いてゆく男の体温が、聡のそばにあった。


夜の底で、二体の麒麟きりんがひとつになる。

背中合わせになっていた二匹の麒麟は、聡の中で“”と“うん”の形にかみ合いながら、ひとつの円環を作っていた。

そして最後に音也はため息のように聡にささやいた。


「おまえ、青いチューリップに囲まれているみたいだ。きれいだぜ聡」


そのまま、音也は聡をきつくきつく抱きしめた。

一生に一度の恋を手放さない決意をした男は、この世の最上の花を抱きしめていた。


聡の首すじに顔を埋め、楠音也は生まれて初めて心の底から笑う。

幸せな、幸せな麒麟きりん咆哮ほうこうが、聡をつらぬいていった。


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