3「断章・御稲」
第百三十七話 「アラスカを。ステアで頼むよ」
引退したバレエダンサーで、名古屋で人気の高いバレエスタジオのオーナーでバレエ教師でもあると、六十二歳になる独り身の女としてはかなり忙しい生活を送ることになる。
忙しすぎる
環も意外と飲めるほうで、御稲は何の配慮もなく好き放題に言い合える環との酒をこよなく愛していた。
しかし、今夜の御稲はひとりでバーの扉をあけた。
「月とジャズ」。
御稲のバレエスタジオから歩いて五分ほどのところにある、小さなショットバーだ。
バーは、中年の小男がひとりでやっている。週末の込み合う時でも学生バイトがひとりいれば、十分にまわせる
席は七人が座れるカウンターと、テーブル二卓。
御稲は店に入って客の
御稲がスツールに座ると、マスターがオーダーを取りに来た。
「
御稲は、酒を飲むときは何も食べない。その習慣を知っているマスターは、カウンターにコースターだけを置いて確認のように御稲に尋ねた。
御稲は簡単に手を振ってことわる。
「いらない」
「何を飲む?」
「アラスカを。ステアで頼むよ」
マスターは黙ってうなずき、酒の支度を始める。
”アラスカ”はフランス産のリキュールである「シャルトリューズ・ジョーヌ」とドライジンを合わせたカクテルだ。ステアでもシェイクでも作れる酒で、ふだんの御稲はシャープさを優先させてシェイクで頼む。
しかし、今夜はステアで少しおだやかに飲みたい気分だ。
飲みたい気分というより、足もとがおぼつかないような御稲の気持ちを、酒で落ちつかせるのが目的だ。
アルコールの力を借りなきゃやれないことなんて、何年ぶりだ?と御稲はむっつりとしたマスターの華麗な手元を眺めながら考える。
北方御稲は、今年で六十二歳になる。
バレエダンサーとして長く舞台に立ち、引退してからは名古屋で多数の少女たちをダンサーとして鍛えてきた。
たいていのひどいことはとっくに
御稲にとっては甥のような
北方御稲とは、そう言う女である。
ただ、今だけは酒の力がいる。
御稲は軽くはおった麻のジャケットからスマホを取り出し、カウンターの上に置いて、じっとにらみつけた。
酒が、手元に届く。
無口なマスターが、ひしゃげた耳をかいてぼそっと言った。
「あんたがスマホを持っているとは、珍しいな」
「ちょいと、義理があるんだよ。カグさん、この店は店内で話せるかい?」
御稲はカウンターの上のスマホをにらみつけたまま、マスターにそう尋ねた。
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