第百三十八話 香港にいる男

カグと呼ばれたマスターは軽く首を縦にふり、店内で低く流れるジャズの音量を上げてくれた。


「これで、他の客が気にならないだろ。とっとと電話をしちまえ」

「悪いね、すぐにすむから」


そう言いながら、御稲はなかなかバーカウンターに置いたスマホにふれようとしない。

一杯めのアラスカはすぐからになり、マスターがだまって二杯めを出す。

それもたちまち空になり、三杯めを口に持って行って御稲ははじめてグラスを見た。

おどろいたように、声を上げる。


「なんだよ、”グリーンアラスカ”じゃないか。いつものジョーヌを使った”アラスカ”でよかったのに」


御稲がそう言うと、口元をへの字に曲げたマスターが軽くあごでカウンターをしめした。


「あんた、ジョーヌの”アラスカ”はもう二杯のんだよ。三杯めはあんたが気づくかどうかと思って、リキュールをヴェールに変えて”グリーンアラスカ”にしてみた」

「そうか。すまなかったね、こんないい酒を水みたいに飲んじまって」

「いいがね。しかしあんたがそんなに考えこんでいるのは、珍しい」


マスターに言われて、御稲は六十を過ぎた女にしては美貌が残りすぎている顔を軽くゆがめて、苦笑にがわらいした。


「やりたくない仕事なのさ」

「やめればいいだろう。あんたくらいの年になれば、たいていのわがままは通せるもんだ」


御稲はあきらめたように頭を振り、


「こいつは紀沙きさ土産みやげだから、どうしようもないんだ。死んだ人間こそ最強だろ」


ああ、とマスターはうなずいた。


「あのお連れさんか。ん、置き土産?」

「死んだんだよ、三カ月前にね―――あたしを置いて。先に。ひとりで」

「そいつは、投げ出せねえ仕事だな」


マスターはもう一度ひしゃげた耳にさわり、それから黙ってグラスを洗い始めた。

御稲はあきらめたようにスマホを手に取り、コールした。

この日のために、御稲の手元にある携帯電話及びスマホはつねに海外と連絡が取れる機種になっている。

二十四年前から、ずっと。


やがて、電話がつながる。

香港ホンコンと日本の時差はマイナス一時間だ。日本が一時間だけ、いつも先にいっている。

今、日本は夜の十一時。ということは香港はまだ夜の十時だ。

相手もよいっぱりだから、電話に出た声はまだまだ眠気などまったくなく、仕事の真っ最中という雰囲気だった。

底さびた声が、電話ごしに御稲に呼びかけた。


「―――北方きたかたか?」


ああ、この声を聴くのも二十四年ぶりか、と北方御稲は暗いバーの中で目を閉じた。

聞きたくなかった声だ。

御稲が、ぜったいに伝えたくなかったことを、これからこの男に言わねばならない。

しかしそれも。

松ヶ峰紀沙まつがみね きさの置き土産だ。

御稲の親友の、最後の願いだった。


「北方なんだろう?」


電話口で、相手がじれったいように声量をあげた。

この男は、と御稲は思う。

若いころから我慢のきかない男だった。せっかちで、いつでも路上を飛ぶように駆け抜けて、御稲の手の中から大切な大切なものをひっさらっていった男だった。


御稲は目をあけた。暗いバーカウンターの上には、飲みかけの緑色の酒がグラスに残っている。


「悪い、しらせがある」


北方御稲はゆっくりと、香港にいる男に向かってそう言った。

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