第百三十九話 龍の気配

『悪い知らせがある』


北方御稲きたかたみしねが電話口でそう言ったとき、相手のこおりついた気配が伝わった。御稲には、電話を通じて男のとまどいと御稲の言葉を信じたくないという気持ちが手に取るように分かった。

男の背後で、香港ほんこんの夜の喧騒けんそう遠雷えんらいのように聞こえる。

不穏ふおんなプラズマを発しながら、大きくうねる龍のような香港の気配だ。


紀沙きさのことか」


男はびついた機械が無理やり動かされるようにしゃべった。

言葉がぎくしゃくしているのは長年の香港暮らしで口の形が日本語をしゃべるのに適さなくなっているからかもしれない。

あるいは、次の御稲の答えを聞きたくないからか。


もっとも相手だって発信者が御稲であることが分かった瞬間に、覚悟ができたはずだと御稲は冷静に思う。

しかし最悪のことに対して覚悟ができたということと、実際に最悪のニュースを言葉として受け止めることは意味がことなる。


北方御稲は、その差を埋めるつらさを知っている。

しかし今は事実を伝えねばならない。

御稲は息を吸い、ゆっくりと言った。


「紀沙が、死んだよ」

「いつだ」

「三か月…三か月半前だ」

「そうか」


電話の声は、淡々としていた。その静かさが、かえって喪失の深さを御稲に感じさせた。

御稲はうっかり相手に同情しそうになる自分を引き留める。

だれかが、冷静にならねば。


「あんたに対してやみの言葉は言わないよ。あたしだって大声で泣きたいんだ」

「俺なんかより、あんたのほうがつらいだろう。それで―――その」


男はおだやかな声で続けた。その声のうらにある問いに、御稲は答えてやる。


たまきが、あんたに会ってもいいと言っている」


その言葉に、城見龍里しろみりゅうりがひゅっと息をのんだのが、御稲の耳に聞こえた。


「ほんとうか」

「ああ。都合がつくときに、日本にくるがいい。あたしに連絡をくれれば環を会いにいかせる」

「少し、待て。北方、電話を切るな、そのまま―――少しだけ待て」


そう言って城見はあわてて何かを探しているようだ。物音が、電話ごしに御稲に聞こえた。

やがて城見はややうわずった声で


「金曜日…金曜日の十五時に成田に着く便がある。それにのる。東京へ来られるだろうか。それとも俺が、名古屋に行くべきか?」


御稲はちょっと考えて


「東京のほうがいい。こっちはさとしの選挙が間近まぢかなんで、あの子も落ちつかないんだ。東京の、四谷よつやのコルヌイエホテルはわかるか」

「ああ」

「コルヌイエのメインロビーで、金曜日の十七時にしよう。環はその日コルヌイエに宿をとるから、もしあんたが遅れても部屋で待っている」


御稲の言葉に、城見は短く答えた。


「行く。ってでもいく。なあ、北方」


と龍の気配を持つ男は、浅く息継いきつぎをしてから御稲に続けていった。


「ありがとう」

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