第百三十五話 世界の底を倶にする男

『脱げ』という音也おとやの言葉に、さとしは赤くなって言い返した。


「ええええ。お前さっそく、なんて恥ずかしいことを言うんだよ。いや、たしかに俺はお前に惚れているから、もうこのカラダはお前の好きにさせてやるけどさ」


すると楠音也くすのき おとやはあきれたような表情で、静かな夜の中、小さく鼻を鳴らした。

その鼻先がほんのわずかに赤くなっているのが聡にも見えた。


「バカ。すぐに洗うから、シャツを脱げと言ったんだ。あ、ちょっと待て。うかつに動くと、ジャケットやベストにつきそうだ……おれが脱がせる」

「わ、ちょっとまて、音也。お前のその指、エロすぎる。それにお前、なんでもうなんだよ!」

「なにが?」

「だから、おまえのソレ。くそ、上着とベストを脱がされているだけなのに、なんでこんなに。気持ちいい……んだ」


ふわ、と聡は我ながらなさけけない声をあげた。音也の指がふれるたびに、びりびりするほどに気持ちいい。


「あ……オト、だめだ」

「シャツもおれが脱がせる。大丈夫だ。すぐに洗えばシミにならない」

「シャツなんか、どうでもいい。おと……」


しかし無慈悲な音也の手は、聡を青いチューリップのタイルの上に押し倒したまま手ぎわよく丸裸まるはだかにして、シャツだけをタイルの床に放り出した。


「さて」


といって、今度は音也がちろりと舌を出して唇をなめた。

ひんやりした美貌とあいまって、その表情はぞくぞくするほどに色っぽい。


「サト。さんざんおれの身体を好きにしてくれたな?」

「……お前、こういう時の顔はキチクだな」


音也がにやりと笑う。


「じゃあ、この顔をおぼえておいてもらおうか。この先はもうお前しか見ない顔だぜ、聡」


ゆっくりと音也の身体が聡にかぶさってくる。

熱が、ふれる。

聡の身体に快楽を約束する熱だ。

松ヶ峰聡に永遠につきしたがい、世界の底をともにする男の熱が、聡の中に入りこんできた。

音也が、申しわけないとはまったく思っていないような厚みのあるバリトンでささやく。


「わるい。おまえをゆるめてやる余裕が、ない」

「……ふっう」


聡は思わずうめいた。音也の身体が止まる。


「くそ、おまえが苦しいと、おれまで苦しい」

「馬鹿いえ……んのは、お前じゃない、だろうが」

「精神的なもののことだ。おれは、おまえと違って繊細なんだ」

「繊細なやつが、こんなことするかよ!」


聡が言い返すと、音也は骨の細い指でさらりと聡のひたいから前髪を払った。


「おまえ、ほんとうにもう少し髪を切ったほうがいいな」

「それ……今言わなきゃいけないか、オト」


聡が憎まれ口をたたくと、音也は切ないような顔つきで笑い、そっと聡のひたいに唇を乗せた。

音也の唇が、気持ちいい。

唇だけでなく、指も手のひらも聡の中にある熱も、何もかもが心地よかった。


まるでずっと昔から約束されていた場所にようやくたどり着いたかのように。

松ヶ峰聡は満ち足りていた。

音也が、つぶやく。


「おれは今、どんなことでも言いたい。この十年ずっと、おれは言いたかったことをしまいこんで生きてきた。本当に言いたいことの欠片かけらも、ずっとお前に言えなかったから」

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