第百三十四話 音也の肩甲骨の下

松ヶ峰聡まつがみね さとしは真っ暗な名古屋の夜のなか、十日前に東京の日本橋にほんばしで見たブロンズ製の麒麟像きりんぞうを思い出していた。

頭上を首都高でふさがれた橋の上で、いただく天もないままに背中合わせにすわりこむ一対いっついの麒麟像。

片方は口をつよく閉じ、片方は炎を吐き出すようにかっきりと口を開けている。


龍の顔と龍の首をもち、全身をうろこでおおわれた幻のけものは、二体ありながら、それぞれが反対方向をにらみつけている。

ちょうど、聡と音也おとやのように。


だが、あの麒麟は夜になると魚の本性ほんしょうを取り戻すのだといった男がいる。

ひれのような羽根をはためかし、暗い川を泳ぎ渡って海まで出るのだ、と教えてくれた男がいる。


聡は今、夜の海におどりでた麒麟の姿を見ていた。

うろこを月光にきらめかせ、ひれのような羽根で海の水を跳ね散らかして遊ぶ二体の麒麟。

その姿は楽しげで、月光さえもがうらやましそうだ。


ねえ、井上いのうえさん――と、聡は思った。

俺は、俺の麒麟を手に入れましたよ。この麒麟は俺のものだ。俺だけのものです。

あなたは、あなたの麒麟を手に入れましたか?

やなぎ若木わかぎのように、美しいひとを。

がんこなイギリス車のように、こちらの言うことをまったく聞かないいとおしい人を。

あなたも、その大きな手の中におさめましたか?


聡が答えのない問いを夜に向かって放っている間、聡とほぼ同じ百八十四センチのしなやかな音也の身体は、なめらかにうねり続けている。

白いシャツに包まれた麒麟の片割れが、ようやく吐き出せるようになった恋情ととともに炎と吐息をふき上げている。


聡の、麒麟だ。

聡のためだけの麒麟だ。

そして聡は、音也と自分の羽根を思う存分のばすために、甘やかな愛撫を続けた。

いとしさが、血を流す瞬間がある。

聡は愛撫を刃にしてゆっくりと音也の肩甲骨けんこうこつの下を切り開いた。

そこに、麒麟の羽根が眠っている。


十年にわたって楠音也くすのき おとやが注意深くかくしきってきた魚のひれのような流線型の羽根が、しまわれている。

それは、ひたすらにこの時を待っていたのだ、と聡は思った。

松ヶ峰聡の指と舌と声で、解放されるのを待っていたのだ。

オト、と聡は呼びかけた。


「あいしているよ。俺が、お前の最後の男だ。もう誰にもさわらせるな」


音也が薄いはがねのような身体をふるわせて聡の指で解放された瞬間、音也の背中から青銅製のなめらかな羽根があらわれた。

羽根は愉悦に激しく揺り動かされ、きらきらとした愛情とともに、この世にあふれ出てきた。

音也が、切ない声を上げる。


「さと!さとっ」


聡は、ぎゅっと音也を抱きしめた。いとしいひとは、快楽の名残なごりを引きずりながら聡の腕の中でふるえていた。

聡は小さく笑って音也の頭を撫でた。


「もう、愛しているって言っちまえよ」

「おれはこのあいだ……言った。東京の……コルヌイエホテルで」

「そうだったかな」


チっと、音也は舌打ちをした。


てにならない男だな。おれはあの時のことを一秒残らずおぼえているぜ」

「しょうがねえだろ。あれは俺のロストバージンだったんだ。そう言う時は、よくおぼえてねえもんだ」

「薄情なんだ、おまえは。……あ。くそ」


ちいさく、音也が聡の腕の中で悪態あくたいをついた。


「うっかり。おまえ、それ、おろしたばかりのスーツだろう」

「え?」


あわてて自分のスーツを見おろした聡を音也は憎々にくにくしげに見てから、聡の耳を引っ張った。自分の上から乱暴にどける。


「ついてないか」

「なにが」

「だから……おれの」

「え。あ?」

「仕方がないな、立てよ、聡」


すらっと立った音也は、もうモデルのような完璧な姿を取り戻している。

そして聡を立たせると足元にアパレルショップの店員のようにひざまずき、聡のスーツを丹念たんねん検分けんぶんした。


「よし。うまい具合にシャツにしかついていないな。サト、脱げ」

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