第四十四話 母の”最後の男”

藤島環ふじしまたまきは住宅街の一角で立ちどまり、さとしに一軒の家をしめして見せた。

その家は、高台にあって敷地が南に向かってやや傾斜していた。道に面して生垣いけがきがあり、二階建ての家の屋根がのぞいている。


「普通の家だな」

「ええ。九十坪くらいあるみたいですね。このあたりで九十坪の一戸建てと言ったら、ひと財産なんだそうですよ」


へえ、と聡は環の顔を見た。


「”ひと財産”だなんて言葉をよく知っていたな、たまちゃん」


すると環はふっくらした頬をわずかに赤らめ


「あの、先日いっしょにこちらに来た時に、今野こんのさんがそうおっしゃっていて」

「ああそう…”今野”ね」


聡は少し腹立たしく思いながら、聡は門扉もんぴを押して敷地に入っていった。

狭いながらも玄関までの庭はよく手入れがされ、松ヶ峰邸まつがみねていと同じくエメラルドグリーンの芝生が光っていた。

玄関に着くと、環が手ぎわよく鍵をあける。聡はからっぽの玄関に足を踏み入れた。


空っぽの玄関、というのは正確ではないかもしれない。

聡の目が慣れてくると、玄関がまるで客を迎えるように整えられているのが分かった。棚の上にはガラスの花器があり、そこからあふれるように生花が飾られていた。


「お花屋さんに週に一回の配達を頼んでおられたみたいです。この家の家計簿に支払い記録が残っています」

「おふくろは花が好きだったからな。さて、家の中を見るか。ここはアトリエだって?」


聡は環が並べたスリッパをはいて家に上がった。すべての物音が、うつろに反響して聞こえる。やはり、空っぽの家だ。

環は聡の前に立ち、


「アトリエはお二階なんです」


というと階段へむかった。

聡はふと、階段下の扉を開いてみた。中には黄色っぽいリネンがぎっしりと積み上げられている。この色は、松ヶ峰邸にあるリネンと同じ色だ。

たしかに、この家は松ヶ峰紀沙が手をかけた場所らしい。


「たいした量だな。いったい、何枚あるんだ?」


聡がつぶやくと、隣に来た環もうなずいて


「リネンだけではないんです。キッチンにはコットンのクロスが山積みですし、調理器具も土鍋からフライパン、蒸し器までそろっていて、明日からでも暮らせます。

あの、紀沙きさおばさまはこのお家をご自分の隠居所にするつもりだったのではないでしょうか」


聡はふっくらした環の小さな手を見ながら、柔らかく微笑んだ。


「どうかな。俺には、おふくろが君のために用意した家に見えるよ、たまちゃん」


聡の言葉を聞いて、環はほろりと涙をこぼした。

ふっくらした環の頬に、四月の午後の光を集めた涙の粒がこぼれてゆく。

収納棚の上から下まで、ぎっしりと詰め込まれたアイリッシュリネンの山を眺めつつ、松ヶ峰聡はひそかにこぶしを握り締めた。


この子は、聡が守らねば。

聡の母がたったひとりのこした少女は、聡が守るべき家族だ。

楠音也くすのき おとやのろくでもない選挙戦略にたまきを巻き込むなど、言語道断だ。


聡の人生は音也の好きにさせるとしても、藤島環の人生には指一本ふれさせまい、と聡は決心した。

たとえ楠音也が、聡の母の”最後の男”だったとしても。

そこだけは、譲れない。

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