2「松ヶ峰聡の知らない、時計の問題」

第四十三話 ”罪の子”

松ヶ峰家まつがみねけの弁護士である三木みきの事務所をでたとき、さとしはよほど蒼白そうはくな顔をしていたらしい。

聡とともに地下鉄で”一社いっしゃ”にある家に向かうあいだ、藤島環ふじしまたまきは何度も聡の顔を見ていた。


三十分後、一社駅いっしゃえきに着いたときには、さすがに聡の呼吸も心拍数も少しはましになっていた。

階段を上がり、地上に出る。時間は四時過ぎになっており、四月の空はかすかに夕暮ゆうぐれの気配を帯びている。


「それで、どんな家だ?今野こんのは普通の家だと言っていたが」

「ええ。ごく普通の一軒家です。二階建てでお庭がついています」


聡はちらりと環の姿を見た。

環は今日も、上品ではあるがもっさりとした濃紺のジャケットと膝丈のスカートをはいている。髪型はストレートのボブ。手入れはしやすいのだろうが、男の欲情は全くそそらない外見だ。


聡の亡き母が、まるで純粋培養のように育てために、藤島環ふじしまたまき恋愛沙汰れんあいざたのひとつもないままで、二十四歳になってしまった。


今野こんのと、たまちゃんか…。


環のあとから坂道を上がりながら、聡は首をひねった。

今野は環と正反対の性格で、どこまでも明るくチャラく、人当たりがいい。おとなしくて思案じあんな環とでは、どうもうまく行きそうにない。

行きそうにないのだが…。


松ヶ峰聡はこの数年で、恋愛とは常識が通じるものではないことを知り尽くした。その論理で考えるのなら、”今野と環”のあいだに何かがあってもおかしくはない。


そう思いながらも、聡はどうも納得がいかない気がする。

聡にとっては、藤島環はいつまでたっても白鳳学園はくほうがくえん幼稚舎の制服を着た幼児であり、ランドセルを背負った小学生で、白鳳の保守的な制服を着た中学生のままなのだ。


聡と環のあいだには三歳の差がある。

生後半年の藤島環が紀沙に連れられて松ヶ峰本邸にやってきたのは、聡が四歳になる少しまえのことだった。

ちょうど、聡の父親が亡くなってから二年後のことだ。


その前年から、松ヶ峰紀沙まつがみねきさは心労のために体調を崩していた。

親友である北方御稲きたかたみしねの所有する軽井沢の別荘に引っ込み、家政のほとんどをメールや電話での指示で済ませていた。

聡は御稲みしねに連れられて月に一回のペースで軽井沢へいき、ベッドに座ったままの母を見舞った。


さびしかったが、聡は松ヶ峰本邸を留守にすることはできない。三歳だろうが四歳だろうが、聡は松ヶ峰本家の当主だったからだ。

一年の軽井沢での静養ののち、病が軽快した紀沙は嬰児えいじである藤島環ふじしまたまきを引き取って名古屋へ戻ってきた。

藤島環は、紀沙が軽井沢滞在中に世話になった遠縁の藤島夫妻が残した遺児だ。夫妻は急な事故で亡くなったらしい。


そこから、紀沙と聡と環の三人の生活が始まった。聡にとっては、それ以前とはまるで違う明るくのどやかな生活だった。

環を引き取ってからの松ヶ峰紀沙は、聡が驚くほど生き生きとしはじめた。

今になって聡は、あの当時の母親の急激な変わりようを、欲しがっていた娘の代わりに環が母の手に入ったからだと考えている。


松ヶ峰紀沙は気丈きじょうな人であったが、それでも亡き夫と愛人のあいだに生まれた子供を、ひとりで育てていくのは楽なことではなかったのだろう。

そんなことを考えるとき、聡のような楽天家でもふと自分を”罪の子”だと思うことがある。


松ヶ峰紀沙にとって、聡はだった。紀沙と婚家こんか否応いやおうなく結ぶ鎖。その重苦しい関係を幼い藤島環がなごませていたのだ。

その母が残した家を、母がのこしたたまきと見に行く。


「不思議なものだな」


と思わず聡はつぶやいた。


「何がふしぎなんです?あ、サト兄さん、この家です」


環がそう言って、一軒の家の前で足を止めた。

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