第八話 音也は”売り物”

松ヶ峰聡まつがみね さとしの所有するビートルはかなり古いものだが、聡は松ヶ峰家のガレージに並ぶどの車よりもこの小さな車が気に入っている。

なぜなら、かつて大学に入学するときに母親の紀沙きさが祝いに買ってくれたものだからだ。


そのとき十八才の聡はどうしてもオープンカーがほしかったのに、紀沙は絶対に買ってくれなかった。

若い男がオープンカーに乗ると下品に見えるという、紀沙以外にはだれにもわからない理由でウンと言わなかったのだ。

おふくろの頭の中は分からないことだらけだった、と四月の街路樹の花から香る甘い風を額に受けながら、聡は黙って車を運転している。


そこへ、音也の冷たい声が割り込んできた。


「おまえ、紀沙さんの本葬ほんそうの日も、ろくに”本郷ほんごう”のひとと話さなかったろう。今日はきっちりお礼を言えよ」


ふうと聡はため息をつき、赤信号の前でわざと強くビートルのブレーキを踏んだ。

音也がようやくこっちを向く。

力のある目もと、とがったあご、わずかにった鼻。

誰が見ても完璧なバランスの美貌が、冷たい目つきで聡を見ていた。


音也の硬めの髪はいつだって、ざっくりと切ったばかりに見える。しかしその長さや形はつねに一定に保たれていることを聡は知っている。

高校時代から、音也は自分の外見に気を配る男だった。なぜなら楠音也は”売り物”だったからだ。


父親が早くなくなった楠家くすのきけは、音也がモデルとして稼ぎ出す金で生活しており、音也は自分と家族のためにどうしてもその外見を維持する必要があったのだ。

だから音也の髪はいつも校則ギリギリの長さだった。

そして聡がおぼえている限り、松ヶ峰紀沙は音也の長髪について何ひとつ言ったことがない。


楠音也は学生時代から紀沙のお気に入りの少年だった。

長髪も雑誌モデルのバイトも、およそ紀紗の基準に当てはまらないものばかりで楠音也は構成されていたのに、何をしても音也なら許された。

それどころか、紀沙は音也の写真が掲載されている雑誌をわざわざ環に買いに行かせ、自宅でよく眺めていた。

まるで出来のいい息子を眺めるように。


音也の長髪が許されて聡のオープンカーがだめだという、松ヶ峰紀沙の判断基準がどこにあったのか。

亡き母と、聡の親友との間にあったものはなんだったのか。聡はそんな些末さまつなことをどうしても突き止めたい気がする。

突き止めるのがこわい気もする。

今になって、母親と親友との間にがあったとわかったらどうしたらいいのか、聡にはわからないからだ。


そのタイミングで、とんと音也が聡の肩をつついた。聡の肉厚な肩から心臓めがけて音也の体温が走り抜けた。

聡の心臓が、一気に跳ねた。


「なんだよ」

「信号、変わっているぜ聡」


見ると目の前の信号が青になっている。

聡は少しあわててアクセルを踏んだ。そして混乱をかくすように早口で音也に言った。


「今日は、お礼だけ言ったら本郷から引き上げよう」


すると音也は厳然げんぜんと美貌をとがらせて


「バカ、何のために行くと思っているんだ。“本郷”の機嫌をがっちり取るためじゃないか。聡、お前がいくら気に入らなくても後援会を握っているのは、あの人だ。紀沙さんが亡くなった今、”吉松会きっしょうかい”はあの人の言葉で動くといってもいい。あの家でカアと鳴けと言われたら、おまえは鳴くんだよ聡」

「そんなことをしてみろ。たちまち、あの売れのこった従姉いとこと結婚させられる」

「それで”吉松会”の票がまとめられるなら、結婚しろ」

「―――なんだって?」


音也の言葉に、聡は思わず車を道のわきに寄せてとめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る