第九話 こいつににらまれると、おれの身体は反応する

聡は車のギアをニュートラルにいれて、なにも言わずに隣に座る楠音也くすのき おとやをにらみつけた。

音也のぐさ声音こわねも、何もかもが腹立たしい。それは、聡のどうしようもない恋情に音也が気づきもしないせいだ。

そして聡には、音也に愛情を伝える勇気も玉砕する気迫もない。


なぜなら、松ヶ峰聡はどうしようもなく”松ヶ峰聡”だからだ。

松ヶ峰家の四代目として生まれ、公明正大な政治家として生きていく以外に道がない男だからだ。

聡自身は政治家になりたいなどとみじんも考えておらず、できればこのまま何者でもない毎日を無為むいに過ごしたい。しかし松ヶ峰の名前と血統が、聡の人生を決定づけていた。


聡は”松ヶ峰聡”以外の人間になりたい。

しかし今、聡の目の前にいる音也はだまって松ヶ峰聡になれ、という。

己を殺し、己を否定しきって”松ヶ峰聡”という記号になれ、と言っている。


この世に転生も輪廻もないものならば、記号になるのが一番らくかもしれない。

まわりが求める松ヶ峰聡になれば、誰かひとりくらいは聡に似た影を愛してくれるひとがいるかもしれない。

聡は何か言い返そうと口をひらいたが、助手席に座る音也の眼を見てカラカラになった口からかろうじてつばを飲み込んだ。


「音也。てめえ、本気で言っていやがるな?本気で、ひょうのために俺を結婚させるつもりだな」


音也はにやりと笑った。

聡の背筋を寒気が走り抜ける。そして聡の背筋から後頭部にかけて走り登っていく寒気のなかには、暗いが混じっている。

音也ににらまれると、聡の身体は反応する。


のどやかな春の日に欲情じみた戦慄せんりつをさらけ出されて、聡は狼狽ろうばいした。

思わず音也から視線をそらす。

音也の目線が自分の喉首のどくびに据えられているのを感じて、聡の身体がさらに過敏に反応した。


やばい、だ。


しかし聡の高揚は、音也の冷ややかな声で一気にさめた。


「おまえ、選挙で勝つためにおれを東京から呼んだんだろう?」

「ああ」

「おれを呼ぶ時に、この選挙に勝つためなら”何でもする”と言ったな?それを忘れていないな、聡」


音也はシュッと音を立ててマッチをすり、くわえた煙草に火をつけた。

冷静なバリトンは、聡の恋情をかろやかに踏みにじりながら続いていく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る