第十話 音也の唇
古いビートルの中に、冷たくとがった楠音也のバリトンが響き渡った。
「ちょうどいいタイミングだから、おまえに言っておく聡。
だからな―――」
と、音也は安っぽいスーツのポケットから取り出した煙草を、聡に放り投げた。
聡は箱を受け止めて、煙草を一本取り出した。今日の煙草は外国ものらしい薄いブルーの箱だ。
フィルターなしの煙草を聡は火をつけずにくわえた。
音也は冷静に続ける。
「言ってみれば、うちの陣営は選挙の半年前に
こいつは、でかいダメージだ。なにしろ紀沙さんは、お前の選挙区の女性票を握っていた人だからだ」
聡はむっとして、そっぽを向いた。音也は笑いもしないで
「このあたりの土地じゃあ固い女性票が一番信用できる。おばさんたちはいったん候補者を気に入ってくれたら、雨でも台風でも投票しに行ってくれるからな。
その信頼できる票をいかに味方につけるか、そこが選挙のヤマなんだよ」
「……おふくろはその票を握っていた、のか?」
ふわ、と音也は薄い唇から煙草の煙を吐いた。
「そうさ。紀沙さんが何のために、二十年もボランティアで絵手紙教室の先生をやっていたと思う?謝礼は一切受け取らず、むしろ金は
紀沙さんにとって何のメリットもない絵手紙教室を、二十年も千種区と名東区で続けてきたのは、おまえの
そこまで聞いて、聡はやっと煙草に火をつけた。白い巻紙に、うすくアルファベットが印刷されている煙草は、火をつけると強烈な香りが立った。
「それでお前は、俺に何をしろというんだ。あの性格のきつい売れ残りの
もういっそ、逃げ出したいと聡は思った。
そう言おうと口を開きかけたとき、何か華麗なものが近づく気配がした。
音也だ。
もっと正確に言えば、音也の唇が、聡の口もとにあった。
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