第十話 音也の唇

古いビートルの中に、冷たくとがった楠音也のバリトンが響き渡った。


「ちょうどいいタイミングだから、おまえに言っておく聡。紀沙きささんが亡くなった今”票読ひょうよみ”は、そっくりやり直しだ。

松ヶ峰家まつがみねけは長年ずっと紀沙さんひとりが握っていた。先代が亡くなってから三十年ものあいだ紀沙さんがひとりで切り回していた。あのひとは松ヶ峰家そのものだったんだよ。

だからな―――」


と、音也は安っぽいスーツのポケットから取り出した煙草を、聡に放り投げた。

聡は箱を受け止めて、煙草を一本取り出した。今日の煙草は外国ものらしい薄いブルーの箱だ。

フィルターなしの煙草を聡は火をつけずにくわえた。

音也は冷静に続ける。


「言ってみれば、うちの陣営は選挙の半年前に松ヶ峰紀沙まつがみね きさっていう大黒柱だいこくばしらをなくしたんだ。

こいつは、でかいダメージだ。なにしろ紀沙さんは、お前の選挙区のを握っていた人だからだ」


聡はむっとして、そっぽを向いた。音也は笑いもしないで


「このあたりの土地じゃあが一番信用できる。おばさんたちはいったん候補者を気に入ってくれたら、雨でも台風でも投票しに行ってくれるからな。

その信頼できる票をいかに味方につけるか、そこが選挙のヤマなんだよ」

「……おふくろはその票を握っていた、のか?」


ふわ、と音也は薄い唇から煙草の煙を吐いた。


「そうさ。紀沙さんが何のために、二十年もボランティアで絵手紙教室の先生をやっていたと思う?謝礼は一切受け取らず、むしろ金はし。

紀沙さんにとって何のメリットもない絵手紙教室を、二十年も千種区と名東区で続けてきたのは、おまえの地盤固じばんがためのためだ」


そこまで聞いて、聡はやっと煙草に火をつけた。白い巻紙に、うすくアルファベットが印刷されている煙草は、火をつけると強烈な香りが立った。


「それでお前は、俺に何をしろというんだ。あの性格のきつい売れ残りの従姉いとこと結婚でもすりゃ、それでお前は満足なのかよ」


もういっそ、逃げ出したいと聡は思った。

そう言おうと口を開きかけたとき、何か華麗なものが近づく気配がした。

音也だ。

もっと正確に言えば、音也の唇が、聡の口もとにあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る