第百七十二話 兄と妹

松ヶ峰聡まつがみね さとしはなにげない顔つきで、恋人であり華麗な政治秘書でもある楠音也くすのき おとやに問いかけた。


「オト。お前、最近背が伸びたか?」


音也はつやのある涼やかな目をいぶかしげにほそめた。


「背? 変わらないぜ。二十七にもなって今さら背が伸びるわけがない」


そうだな、と言いながら、聡はにやりと笑った。


「気がついているか。お前最近、猫背ねこぜじゃなくなったんだよ。背筋がまっすぐ伸びてる。それから、もらい煙草もやめたな?」

「……何の話だ、聡」

「てめえが、俺にぞっこん惚れこんでいるってことだよ」


聡が身体を折って笑い始めると、音也はうんざりしたように頭を振った。


「いい加減にしろよ、聡。早く着替えろ、先に下におりているぜ」


そう言うと楠音也はとても百八十センチを超す身体とは思えないほどに軽い足音を立てて、部屋を出ていった。

その耳たぶが、赤くなったままなのを聡は目ざとく見つけた。

くく、と笑ったまま聡は部屋のバスルームで顔を洗い、タオルでいいかげんに顔を拭いた。


ふと正面を見ると鏡の向こうから、温和おんわそうな顔つきをしていながらどこかにギラリと肉厚の刃をかくした男が、聡を見返していた。

二十七歳になった、松ヶ峰聡の顔だ。

聡は鏡に向かってちょっと照れたように笑い、整理棚の扉代わりになっている鏡をあけて、背後の棚からシェービングクリームと剃刀かみそりをとりだした。

聡のひげりセットのとなりには、銀色の球体がふたになっているトワレの瓶が並んでいる。


かすかに花の匂いがただよう音也のデューンだ。

この夏以来、ずっと聡の寝室に置かれている恋人のトワレ。

聡はふと、自分からもデューンの匂いがするのに気がついた。

それはまるで音也の隠し続けてきた愛情のように静かに聡のそばにたたずみ、いつのまにか聡の骨の髄にまで染み込んで、みずから芳香を立て始めた。


松ヶ峰聡は、これからこの香りと共に生きてゆく。

そう決めたのだ。

ぐうううっと聡の腹が鳴った。


「ぐわ。腹が減った」


聡はそうつぶやいて手早くひげをそると、剃刀かみそりを片付けてベッドわきに置いてあるカバンを手にした。

このカバンは先日、妹分いもうとぶん藤島環ふじしまたまきがわざわざ一社いっしゃの家からやってきて荷造にづくりしていったカバンだ。


環は最近、月のうち半分ほどをこの松ヶ峰の本邸で過ごし、残りの半分は聡の亡母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさが環のために残した名東区一社めいとうくいっしゃにある家で一人で暮らすようになった。

表向きは聡の選挙が終わり、環が紀沙から引き継いだ古美術品コレクションをあつかう財団法人の仕事が忙しくなってきたからだということだが、本当のところは別に理由があるらしい。


今野哲史こんのてつし

今、松ヶ峰邸のサンルームでフライパンを振るい、あきれるほどにうまい朝めしをつくっている聡の部下が、環の引越しのだ。

まだ二十一にしかならない今野を、環は本腰ほんごしを入れて“政治屋”に仕立て直すつもりだ。

政治屋にとって最もたいせつな地盤づくりのために、環はすでに動き始めている。


環が松ヶ峰紀沙から叩き込まれた手腕を存分にふるえば、三年もしないうちに、今野は年若としわかい政治家に生まれ変わるはずだ。

環の手によって。

そして今野の目論見もくろみに従えば「この世でいちばん頼りになる、俺の嫁」となって。


ざりっと、ひげをそり終わったあごを撫でて聡はつぶやいた。


「……そううまくいくかね。あいつは、たまちゃんを甘く見すぎているぜ」


ともあれ松ヶ峰聡の優しい妹については、もう何の心配もいらなくなったようだ。

聡にとっては、ややさびしい事態ではあるが。

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