第百七十三話 何もない、静かな部屋

松ヶ峰聡まつがみね さとしは広い自室に立ち、足元のカバンをじっと見つめた。

カバンの荷づくりをしながら、聡に小言こごとをいう妹分いもうとぶん藤島環ふじしまたまきの声が耳元でありありとよみがる。


『サト兄さん、そろそろご自分で荷造りをなさってくださいね。音也おとやさんもお忙しいんですから』


これまでに何百回も聡のために荷造りをしてきた環は、ためらいもなく必要なものを聡のカバンに入れていった。

その手ぎわの良さはベテランの職人のようだ。

環は忙しく手を動かしながらゆっくりした口調で、しかしきっぱりと自分が言いたいことを口にした。


『私も、いつまでもサト兄さんのお世話ばかりをしていられなくなってきました。

選挙が終わって、今度は紀沙きさおばさまのコレクション管理で忙しくなってきたんです。おばさまのコレクションはどれもおしながいいから、あちこちの美術館から貸し出し依頼をたくさんいただいています。

お品によっては貴重すぎて、私が自分で美術館まで運ばなくてはいけないものもあるんです。

それに』


と、環はここで言葉を切り、ふんわりと微笑んで兄を見た。


『それにもう、私の手はいらないでしょう?私は私でがんばっていこうと思います』


『私は私で』といったときの環の後ろに、聡は今野哲史こんのてつしの大きな肩をかいまた。

聡の年若い部下――あの男がまだ二十一歳だったというのは、聡にも想定外のことだったが――は、いつのまにか聡の妹の中に入り込み、環と同じ方向を見始めている。


そのための準備のつもりか、今野はつい先日、聡にねだり倒してついに横井謙吉よこいけんきち事務所を離れ、聡の事務所の正式なスタッフとなった。

今野なりに、この先も環とともにいるという旗をげたつもりらしい。

しっかり者の環に、愛嬌が最大の武器である今野。

デコボコペアと言えないこともないが、聡の利発りはつな妹は年下の男を上手にコントロールしていくだろう。


ともに在り、ともに進み、ともに生きてゆくふたりだ。

ちょうど、聡の母が聡をたくみに導いて、その手に政治家としての将来とたったひとりの大切な男を持たせたように。


「ま、なんとかなるか」


松ヶ峰聡は適当にネクタイをむすびつつ、つぶやいた。そしてカバンを手に取り、部屋を出ようとしてふと振り返った。

大正時代に建てられた石造りの巨大な洋館・松ヶ峰まつがみね邸。

らせん階段を上がった二階には、書斎と寝室が続きになった松ヶ峰本家の総領だけが使う部屋がある。

四代続く名古屋の政治家・松ヶ峰家の中心。


聡がわずか2歳で父を失ったあと、この部屋のあるじは聡とされた。

巨大すぎる部屋は幼い聡を圧倒し続けてきたが、いつのまにか、聡の身の丈に合ってきたようだ。

ちょうどヤドカリが自分の体の大きさにあわせて、貝がらをさがすように。

いつのまにか、聡の身体はあたりまえのようにこの巨大な部屋と松ヶ峰邸と、松ヶ峰の名を背負えるようになった。


母と暮らした記憶がある家。

いつもどこかから別の場所に向けて、風が吹き抜けている部屋。

この先は、音也おとやの花のようなデューンの香りが残る、聡と音也の部屋だ。


部屋の入口に立ち、チーク材の重いドアを閉める前に松ヶ峰聡はつぶやいた。


「いってくるぜ、母さん」





★★★

『衆議院議員選挙・愛知県小選挙区 開票結果。定員十五。


愛知二区(千種区・守山区・名東区)。

当選者氏名:松ヶ峰聡・二十七歳。

得票数:十万千六百票(一位)。得票率五十一.一三パーセント。

政党:保守党。

当選回数:ゼロ回、初当選』



   ―――【了】―――


「なにもない、静かな部屋」


2012年10月12日 初稿脱稿

2020年7月21日  最終稿脱稿

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