「エピローグ・何もない静かな部屋」

第百七十一話 いとしい人の呼吸音

規則正しい呼吸音が、耳元で聞こえている。

甘やかなひそやかな音は、耳から入って全身をうるおし、皮膚を経由して部屋の中に満ちていく。


目を閉じて闇にくるまり、松ヶ峰聡まつがみね さとしは静かに恋人の呼吸音を数えている。

いとしい人の呼吸音は軽くやわらかく伸びて、やがてくるりと聡を包み込み、一対の温かい唇となって聡の唇に重なる。


舌が、入ってくる。

愛情と昨夜の欲情の名残なごりと体温が、どっと聡の中に入ってくる。

優しさといたわり。

尽きせぬ愛情。

やがてキスが終わり、いとしいひとの、いとしくない冷たい声が聞こえてくる。


「起きろ、聡。時間だ」


聡はしぶしぶ目を開く。

目の前では楠音也くすのき おとやの百八十四センチの長身が、聡の寝室にある巨大な四柱式ベッドに乗っている。

ダンガリーのシャツに黒いニットをはおった音也は、十一月の肌寒い朝でも目を見はるほどに美しい。


聡はまだ半分眠っている目つきで、じっと音也のシャツの隙間からのぞく鎖骨のくぼみをにらみつけた。

音也が肩をすくめる。


「なんだ、聡」

「どうして鎖骨に昨日のキスのあとが残ってねえんだよ。俺はちゃんと歯を立てたぜ」

「コツがあるんだ、キスの跡を残されないためのな。おまえのほうは大丈夫みたいだ」

「なにが」


音也はひんやりとした声で笑って聡の首筋と長い指でなぞりあげた。


「キスのあと。残ってはいるが、ワイシャツでちゃんと隠れる場所につけておいた。

さあ、いい加減に起きろよ。コンが一階したに来て、朝めしを作っている」


ああ、といって聡ははずみをつけてベッドから起き上がった。


「コンのめしか。あいつの朝めしは、ちょっとやばいほどにうまいよな」

「食いすぎるなよ、明日の国会議事堂への初当院はつとういん用にあつらえたスーツが、入らなくなるぜ」

「明日の朝めしをぬけばいいだろ。どうせどこかで適当に食うめしだ、たいしてうまくもない。なあ、どうして東京に行くのにコルヌイエホテルを予約しなかったんだ。あそこなら朝めしもいいいのに」


聡の言葉を聞いて、ベッドわきに立った音也はじろりと恋人をにらんだ。


「初出馬・初当選議員が、はじめて国会議事堂へ登院するんだ、赤坂の議員宿舎以外から国会議事堂へ行けるか、バカ」

「そんなもの、わかりゃしねえじゃん」


聡はいい加減にパジャマを脱いでそのあたりに放り出した。スウェットパンツ一枚では鳥肌が立つほどに寒い。

十一月だ、当たり前だ、と聡は思う。


そのまま隣にいき、クローゼットから昨日の夜に音也が選んでおいたスーツを手にする。背後から音也の鋭い声が聞こえた。


「めしが済んだら、東京へ行く前に事務所に寄るからな。あまり時間がないんだ、早くしろよ」


聡はスーツハンガーを手にしたまま、仏頂面ぶっちょうづらでふりかえった。

聡の巨大なベッドの前で、華麗な政治秘書は軽く腕組みをして立っている。


うつくしい。


聡はあらためて、自分が手に入れた男の美貌にひそかに見とれた。

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