第百七十話 昨日は続いている

たまきはびっくりして思わず水のグラスを取り落としそうになった。それから、すこしどぎまぎしたまま、ダークスーツを着た美貌のホテルマン・井上いのうえに向かってつぶやいた。


おんだなんて、とても。でもあなたとのお付き合いはこれからも、長く続きそうな気がいたします」


環がそう言うと、華麗なホテルマンはかろやかにお辞儀じぎをした。

かっきりした角度を持つ、有能な男の優美な身動きだ。


「もちろんです。コルヌイエホテルはいつでもたまきさまをお待ちしております」

「これからは今野こんのともどもお世話になります」


環もニコリとして立ち上がった。その小さな身体に向かって、井上の柔らかいテノールが降りそそいだ。


「ああ。環さまのご結婚式はぜひともコルヌイエでさせていただきたいものです。わたくしが、ずから指揮をりたかった。

しかし東京でお式はなさいませんでしょうね」


環はほのぼのと笑って答えた。


「残念ですけれども、おしきは名古屋でいたします。

名古屋の冠婚葬祭はものなんです」

「さて……松ヶ峰まつがみねさまには、もうしっかりした地盤がおありかと存じますが?」


いたずらっぽく井上がそう言うと、環も笑って答えた。


「ええ、松ヶ峰の兄はもう何の心配もいりません。信頼できる方にお預けいたしましたから。でも今野は“これからのひと”なんです」

「ますますもって、お母さまそっくりになっていらしたようですね。将来が楽しみだ」


最後にもう一度、にこりと笑って美貌のホテルマンは環の目の前から去っていった。カラのグラスだけを手にして。

そこへ今野がのんきな足取りで戻ってくる。


「あっ、井上さんは行っちゃった? ねえ環ちゃん。あのひと、ほんとにツインの料金で請求したぜ。お礼を言いたかったのに」

「次の機会にいたしましょう。お忙しい方ですから」

「そうみたいだね。井上さんってあの若さでもうマネージャーなんだってね。出世しているんだなあ」

「昔から、仕事がおできになるかたでした。ほんとうに長くごえんが続きそうな方ですわ」


環は思わずそうつぶやいた。となりで、今野がきょとんとした顔をしている。

その顔に柔らかく微笑んで環は言った。


「では、まいりましょうか」

「そうだね……あ、名古屋に帰る前に、新宿の八越やつこしデパートにだけは寄っていこうぜ。

君の白いぎょくにあうチェーンを“ドリー・D”って店で売っているって、井上さんから教えてもらったんだ」

「チェーン?」

「そんなきれいなぎょくのペンダントに、革ひもはちょっとね。そう思って話してみたら、井上さんが、知り合いの“ドリー・D”の店長さんに電話してくれたんだ。

ええと……岡本おかもとさんって人。聞いてもらったら、これにぴったりのチェーンがあるんだって」

「まあ、なんでも聞いてくるんですね。情報収集がお上手だわ」

「俺だって政治屋をめざしているんだよ。忘れちゃった、婚約者どの?」


今野のからかうような言葉に、環は笑った。コルヌイエホテルのメインエントランスを出る前に、ちらりと優美なメインロビーを眺める。

かつて、母ときた場所。

そして初めて父と出会った場所。

環はそっとつぶやいた。


「行ってまいります、おかあさん」



そして。

この日から数年後。

井上清春いのうえきよはるは、今野哲史こんのてつしと藤島環の華燭かしょくてんの陣頭指揮を、たしかにることになる。

そのときには環にも松ヶ峰聡にも井上の身の上にも、とうてい予想もできなかったような事態が巻き起こっている。


どうもこの三人は、それぞれが行き先の知れぬ龍に乗っていたようだ。

しかし、どれも将来のこと。

今はまだ、環も井上もたった四行の詩を心の底に抱いているだけだ。



“どうしよう、

 泣けてきた


 昨日は続いている。”



そしてそれぞれの昨日は、明日に続いてゆく。

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