第百六十九話 ここではないどこかへ

藤島環ふじしまたまきをメインロビーの椅子に座らせ、今野こんのは支払いのためにコルヌイエホテルのレセプションカウンターへ向かった。

そこにはもう美貌のホテルマン・井上はおらず、今野はやや若い男性ホテルマンを相手にチェックアウトの手続きをしていた。


環がぐったりと座っていると、井上いのうえが水のグラスを持ってやってきた。井上は環の足元にまるで騎士のようにひざまずき、グラスを差し出す。


「どうぞ。すこし落ち着きますよ」

「ああ、井上さん。申しわけございません」

「とんでもない。しかし、たいしたかたですね、あれを乗りこなすには環さまにも気概きがいがいりますよ」


環は冷たい水をこくりと飲み込み、レセプションカウンターにいる若い男の背中を見つめた。


「どうも……私はさきの知れない龍を手に入れたようです」

「だからこそ、人生はおもしろい。いやわたくしも、そんなひとを手に入れたいものです」


環はまじまじと隣にひざまずくホテルマンを見た。


「……行き先の知れないひとを手に入れたい? あなたがですか?」


ええと井上は、環にはうかがい知れないほどに深い目の色で笑った。


「わたくしを、ここではないどこかへ連れて行ってくれるひとが欲しい。かなわぬことですが」


環は水のグラスを手にしゃんと背を伸ばして座り直した。それから、井上に言う。


「いいえ。願い続ければかなわぬ恋はない、と私はきのう教えられました」

「環さま?」

「“どうしよう、

 泣けてきた

 

 昨日は続いている。”」


環が昨日、父である城見龍里しろみりゅうりから聞いた短詩をつぶやくと、井上はおどろいたように切れ長の美しい目を見はった。


「“あさやけ”の詩…。なぜ、その詩をごぞんじですか」

「これも昨日教えてもらったんです。井上さんこそ、なぜ?」

「わたくしも昨日、ゲストの方からその詩がのった詩集をお預かりいたしました

その方は、本当に望んだものをついに手に入れたから、代わりに詩集をコルヌイエに置いていきたいとおっしゃいました。詩集を小さなライブラリーラウンジに残してほしいと」

「“どうしよう、

 泣けてきた


 昨日は続いている。”」


環がもう一度短い詩をつぶやくと、井上は秀麗な容貌を優しくにじませ


「環さまの昨日は、あかるい明日に続きますね」


環はうなずき、つぎにまっすぐに井上の顔を見た。


「ええ。そしてきっと、あなたの昨日も明日に続きますわ。

どれほど届かないと思える声でも、叫び続ければいつか伝えたい人につたわる。昨日は、明日につながっているんです」


井上の切れ長の瞳に温かい色が浮いた。


「では、そう信じてまいりましょう。いつかきっとおれの声がに届くと。おれはもう十六年も叫び続けているんです」


ふわっと井上は百八十センチを軽く超える長身で立ちあがった。

そして、にこやかに笑う。


「まったく。あなたがたご兄妹きょうだいときたら、わたくしの背中をどやしつけるために東京へおいでになるようです。一生返せぬご恩ができました」

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