第百六十八話 プリンセスの逆鱗

たまきは自分の脚から力が抜けていくのを感じる。この優美なコルヌイエホテルのロビーで、このまま膝から崩れそうだ。


「ばれたって……今野こんのさんをはじめてサト兄さんから紹介されたとき、たしか私とおなどしだと聞いた記憶がありますが」

「ああ、その、ねえ。俺はあの時、どうしてもさとしさんの事務所で働きたくってさ。だから採用面接の時にちょっとゲタをはかせたというか。としを増やしたというか」


「年令をごまかしたんですか」

「あんまり若いと、聡さんが採用してくれないじゃん」


ぺろり、と今野は顔をなでおろして笑った。


「ごめん、環ちゃん」

「じゃあ……じゃあ本当に二十一歳なんですね」


環はぼうぜんとつぶやいた。そこへ今野がまた爆弾を落とす。


「そう、なったばっかり」

「は?」

「だから、二十一になったばっかり」

「二十一に……なったばかり? 今野さん、お誕生日はいつです」


環の言葉を聞いて、レセプションカウンターの向こうにいる端正なホテルマンはちらりとカウンター内のパソコンに目をやった。そのさりげない仕草が、環の目に入った。

あのパソコンの中には、宿泊者情報として今野の生年月日が入っているはずだ。


藤島環ふじしまたまきはただちに顔をまっすぐにあげ、一回ひとまわり以上も年上の美貌のホテルマン・井上いのうえに厳しい声で命じた。


「井上さん、今野哲史こんのてつしの誕生日を教えてください」

たまきさま、こちらは個人情報になっておりまして」


井上がおだやかにそう言うのに対して、環はびしりと言い返した。


「今野は私の婚約者です。私には、知る資格があるかと思います」


井上はちらっと今野を見た。今野はもうお手上げというように頭をかき


「井上さん、言ってください。彼女がこういう顔をするときは、もう誰もかなわないんです」

「さようですね。わたくしもプリンセスの逆鱗げきりんにふれたくはございません。

環さま、婚約者様のお誕生日は六月二十五日でございます」

「ろくがつ、二十五日……!」


環はもう、最後は軽い悲鳴のような声をあげた。


「ついこのあいだじゃないですか!ほんとうに二十一歳になったばかり……え、じゃあ、は」


環の顔が蒼白になってゆく。

ベテランホテルマンの井上は気をかせて、レセプションカウンターの反対側に歩いて行った。

ふたりきりになって、環が小さな声でつぶやく。


は……今野さん、まだ二十歳はたちでした?」

「あのときって。ああ“あの時”ね!うん、そうかな」

「わたし……まさか、青少年保護条例に違反を……」

「してないって。インコ―条例(淫行条例)にひっかかるのは十八歳未満とのセックスだし、俺は二十歳になってたし」

「法律的な問題だけじゃありません。人道的に……ああ、私、今野さんのご家族におわび申し上げなくては……」

びはいらねえけどさ、近いうちにうちの家族にも会ってよ。君みたいな女の子を連れていったら、オヤジもおふくろも目をまわすぜ」


今野は機嫌よくそう言ってから、軽くしゃがんで環の顔をのぞきこんだ。


「ありゃ、顔色が悪いな。ちょっと座って休んでいく、環ちゃん?」

「はい……」


環は体温が下がったかのような心持こころもちで、コルヌイエホテルのロビーにあるゴブラン織りの椅子に腰かけた。

目の前が、くらくらする。

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