第百六十七話 「やべ、バレた」

いま、コルヌイエホテルの優美なメインロビーを横切って藤島環ふじしまたまきとホテルマン・井上いのうえのほうへ戻ってくる今野の表情は、なさけないほどに沈んで見える。

電話で上司である楠音也くすのき おとやから、何か言われたらしい。

感情がそのまま顔に出る今野に、おもわず環は笑いをもらした。


レセプションカウンターのパソコン上で忙しく手を動かしていたホテルマン・井上は、環に向かってにこりと笑うと


「今野さまは、この先のびしろは十分おありの方だと拝見いたしますよ」


と最後の手続きを終えて、環の手元に明細書を差しだした。

環はそれを取り、ちらりとみて軽く眉をひそめた。


「ほんとうに、ツインの料金で請求なさっているんですか。いけませんわ、スイート分のお支払いをいたします」

「わたくしからのささやかなお祝いだとご笑納しょうのうくださいませ」


長身のホテルマンは妹を見るような目で、環を見た。

そこへ、今野の傍若無人ぼうじゃくぶじんな声が割り込んでくる。


「環ちゃん、今日は三時までに名古屋に帰らなきゃならなくなったよ。夕方からの“吉松会きっしょうかい”の打ち合わせスタッフが足りないからって俺が呼ばれたんだ」

「まあ。今日のスタッフはそろっていたはずですが」


環が驚いてそう言うと、今野は厚めの唇に爪を食い込ませて


「それがさ、“吉松会”幹部の吉田よしだドクターが夏尾竹水なつおちくすい先生の門下会に急遽きゅうきょ、出席できることになったんだ。で、そっちには音也おとやのアニキが行く。俺は音也さんの代わりにさとしさんについて――っと、こういう内訳うちわけは他の人にしゃべっちゃいけないよな?」


今野がぺろりと舌を出すと、井上はたまらなくなったように低い笑い声を漏らした。


「ご安心を。ホテルマンの耳は、聞いてはいけないことを瞬時に忘れる訓練を受けております」

「へえええ。さすがだなあ。俺もこういう耳を持たなくちゃいけないね、環ちゃん?」


今野が真剣にそういうので、環もついに吹きだした。


「そうですね、そして何かを話すまえに、二秒だけお考えになるくせをおつけになるといいでしょう」

「二秒……二秒ね。ねえ、井上さん、俺の婚約者はいいことを言うでしょう? ほんと頭がいい女の子なんだ」


今野がさらりと“婚約者”などと言い始めたので、環はまた顔を赤くして


「今野さんっ」

「え、いいじゃん。聡さんの前ではまだ言わないからさ」

「おねがいします。サト兄さんは、きちんと順序を踏まないと了承りょうしょうしてくれませんから」


二人の会話をにこやかに聞いていた井上が口をはさんだ。


「まさに難攻不落なんこうふらくの守りですね。藤島さまは高い塔で守られているプリンセスなんですよ、今野様。

コルヌイエホテル一同、心よりあなたさまの奮戦ふんせんに期待いたします」


今野は頭を掻き、しかし如実にょじつに嬉しそうな声で井上に答えた。


「はああ。俺もまさか二十一で、もう本命にヒットするとは思っていなかったんでね。準備が足りていないんですよ」

「……にじゅういち?」


環は思わず耳を疑った。

二十一?

何が?

まさか、今野は二十一歳だというのか。


環はあわてて今野の腕に手を置き


「二十一って何です? 今野さんは、私と同じ二十四歳のはずでしょう?」


あ、と今野は無防備に口をあけて笑った。


「やべ、バレた」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る