第百六十六話 新しい女王

老舗ホテルのレセプションカウンターに立つ美貌のホテルマン・井上いのうえのやや甘いテノールの声が、ふんわりとたまきの耳に届いた。


「このカウンターの中におりますと、ゲストの本当のお姿が目に入ります。仲がいいのに反駁はんばくしあっている友人どうし、もう補修のしようがない亀裂きれつの両端にいらっしゃるご夫婦、それから母娘おやこさま」


ごくん、と環はつばをのんだ。その環の姿を井上が優しく見つめていた。


「ちょうど七・八年ほど前でしょうか。わたくしはこのカウンターから、お一組ひとくみ母娘おやこさまのお姿を拝見いたしました。

お母さまは青鈍色あおにびいろの無地のお着物、生成きなりにテッセンの花を描いた帯をおしになって、輝くようにお美しうございました。

隣に立つ年若いお嬢さまのほうは浅葱色あさぎいろのお着物に、撫子柄なでしこがらめの帯を胸高むなだかにしめておられました。

お二人ともこちらに背を向けて立っていらして、頭をくっつけるようになかよく何かをご覧になっていらっしゃいました。そのお背中が――」


と、井上は目の前にそのときの二人がいるかのように目を細めて微笑した。


「こちらを向いて並んだ二つのお背中が、まったく同じ形をしていらした。愛らしいほどにお幸せそうなお二人ふたりでした」

「あ……」


環の頭の中に、そのときの瞬間があざやかに浮かび上がった。

環が高校生の夏休み。ちょうど紀沙きさとふたりで歌舞伎座かぶきざへでかける前だった。

紀沙が先に買っておいたプログラムを見せ、その日のしものの説明をしてくれたのだ。


環は、その日みたはずの芝居について何ひとつ覚えていない。

ただ紀沙がみずから帯地に撫子なでしこを描いてくれた帯が嬉しくて、足元が沸き立つようだったことだけが稲光いなびかりのように頭をよぎった。


「おぼえて、おります」


環がそれだけをこたえると、美貌のホテルマンは微笑んだまま言った。


「紀沙さまは、わたくしどもコルヌイエホテルマンにとって女王のようなお客さまでした。あのかたのご予約がはいると、コルヌイエじゅうがふるい立ったものです。

あのかたのように、サービスマンを無条件にやる気にさせて下さるお客さまはそう多くはありません。紀沙さまが亡くなられてから、心が沈んだコルヌイエマンはわたくしだけではなかっただろうと思います。

しかしこうしてコルヌイエは、あたらしい女王をお迎えすることができました」


井上はにこりと笑うと、環に向かって優美に頭を下げた。


「おかえりなさいませ、たまきさま」

「私に、母と同じことができるでしょうか、井上さん」


環がささやくように言うと、井上は秀麗な美貌にやさしい微笑みを浮かべたまま答えた。


「なぜ、できないとお思いになります? 手はじめに、あのお若いかたを思うようにお育てになってはいかがですか」


井上は視線をすべらせて、大股で環のもとへ戻ってくる今野を見た。

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