5「行き先の知れぬ龍」

第百六十五話 男を育てる手腕

★★★

翌朝、藤島環ふじしまたまき今野こんのは、コルヌイエホテルの優雅なメインロビーに立っていた。チェックアウトのためだ。

アウトの手続きも、やはり待ちかまえていたように美貌のホテルマン・井上いのうえが担当してくれた。


「コルヌイエホテルでのご滞在は、いかがでしたか」


いつもとおなじにこやかな井上の顔は、しかしわずかにからかうような明るさをもっていた。

環は少し顔を赤くしてうつむく。その隣で、今野がニコニコしながら答えているのが聞こえた。


「いろいろありがとうございました。とてもいい記念になりましたよ」

「よろしゅうございました。そうですか、お二人の“記念日”になりそうですか」


井上の声に、環がいっそう気恥ずかしくなって丸い肩をちぢめる。そのタイミングで今野のスマホが鳴り響いた。

環は真っ赤なまま顔を上げて今野を見る。環が“早く電話を取って”という顔をすると、今野は唇をとがらせて、ちらりとデニムのポケットから引き抜いたスマホ画面に目をやった。

着信を確認した今野は、たちまち表情を変え


「やべえ、音也おとやさんからだ」


それから環にもうしわけなさそうな視線をやり


「ごめん、ちょっと電話に出てくるよ」

「チェックアウトのお手続きをしておきますね」

「うん、頼むよ。あっ、金は俺が払うからね、環ちゃん」


そういうと、今野はバタバタとメインロビーのすみに走っていった。電話がほかの客の邪魔にならないように、という配慮らしい。

環はほんのりと微笑みながら今野の後ろ姿を眺め、それからゆっくりとレセプションカウンターの中にいる長身のホテルマン・井上に向きなおって頭を下げた。


「今回はいろいろとご配慮をいただきまして、ありがとうございました」

「とんでもない。藤島様にとって大切な記念日になりましたなら、わたくしも喜ばしく思っております」


井上はながの目をシルバーフレームの眼鏡の奥でゆるませた。


「いずれ、良きご報告をおうかがいできそうですね」

「まだまだ先です。あの、数年先になりそうです」

「そうですか……そうですね、あの方はまだお若いですから。しかし藤島様には、これからあの方を育てる楽しみができましたね」


とんでもない、と言って環は小さな手を横に振ってみせた。


「男の方を育てるだなんて、私には、とてもできないことです」

「さようですか? 亡くなられた紀沙きささまは男をじょうずにお育てになりましたよ。その手腕しゅわんは、きっと受け継がれていることでしょう――お母さまからあなたへ」


しん、とすべての物音が止まってしまったように環には感じた。

高級ホテルのレセプションカウンターをへだてて、環の目の前にいる端正なホテルマンだけが静かな声で話していた。


「お母さまがお亡くなりになりましたこと、心よりお悔やみ申し上げます」


環は井上に向かって声を絞りだした。


「ご存じ……でしたか」


井上は秀麗な顔をにこりとほころばせ、骨の長い指でするりと山桜やまざくらで作られているという、コルヌイエホテルのレセプションカウンターをなでた。

いつくしむような、いとおしむような指の動きに、環は思わず見とれた。


機能的で、官能的な男の指先だ。

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