第四十八話 「このシャツ、音也さんのですよね」

松ヶ峰聡まつがみね さとしは、黄金色の夕日に照らされた広い自室で、これまでの二十七年間の人生で一度もしたことがない事をやってみた。

家族である藤島環ふじしまたまきの前に、ほとんど土下座どげざする勢いで手を合わせたのだ。


「頼む、頼むよ、たまちゃん。来週の東京、一緒に行ってくれ。俺は横井よこい先生に呼ばれてて政治資金パーティに出席する。顔見せのためだから、どうしても行かなきゃならない。音也おとやも一緒なんだ」

「はあ、そうでしょうね」


環はぼんやりと答えた。なにしろ楠音也くすのき おとやは聡の唯一の秘書だ。資金パーティに出席する聡に同行するのが当たり前だろう。

しかしその”当たり前”に耐えられないのが、今の聡だ。

聡は目の前の環をしおがんだまま続けた。


「今回は日程の都合で、最終の新幹線で行く。たまちゃん、頼むよ。君はただ、俺と音也のあいだに座ってくれればいいんだ」

「それは…いま一番やりたくないことです。最近のサト兄さん、音也さんといらっしゃるとピリピリしているんですもの」

「…え」


聡は絶句した。


「そ、そうかな」

「そうです。だいいち、私が同行するって音也さんは了承りょうしょうなさったんですか」


環の口から音也の名が出た途端、聡の勢いは目に見えてしぼんだ。うつむいて、ぼそぼそと答える。


「いやその、音也には、まだ」

「まだ?」

「でも、あいつは君に甘いし、一緒に行くのは嫌とは言わないはず…」

「では音也さんがよろしければ、東京までおともしましょう」


環が譲歩の気配を見せてきたので、聡は飛び上がるように起きて、一気に環にたたみかけた。


「そう!じゃあ決まりだな。あ、その日はコルヌイエホテルに泊まるから、たまちゃんも宿泊の用意をしておいてくれよ」


聡は自分の言いたいことだけを言うと、環がしかめっつらをしている間に隣の寝室にひっこんだ。

とっとと着替えて、音也の命じたとおりに地元商店街の夏祭りへ行かねばならない。


選挙活動は、有権者に顔を売ってなんぼだ。

聡自身も横井謙吉よこいけんきちの選挙で何度も下働きを経験して、候補者が実際に“姿を見せる”ことの重要性をつくづく知った。

名前でもポスターでもなく、生きて歩いて握手をする候補者にこそ、票が投じられるのだ。

だから今の聡は、有能な政治秘書である楠音也がふんきざみで作り上げるスケジュールに従って、用もないのに立候補予定の選挙区を歩きまわっている。


松ヶ峰聡まつがみね さとし”と言う人間がいること。次の衆院選に立候補すること。聡は代々ずっと名古屋から国会議員をだしてきた松ヶ峰家の人間であること。

それを広く知ってもらうことが、これから政治家になろうという聡の最初の仕事なのだ。


そんな大事な顔見せの仕事を後まわしにした聡に、背後にいる環がちょっと怒ったような声を出した。


「着替えるんですか?どれを着るんです?」

「クローゼットのハンガーにかかっているシャツとチノパンを出してくれ、たまちゃん。今朝、音也がそろえていった服なんだ。カッコ悪いけど、他のものを着ていったらあいつに殺されるぜ。イメージ戦略だかなんだか知らねえけどさ」


聡がぶつぶつ言いながら新しい下着を取り出していると、背後でふと空気が固まったような気がした。


「たまちゃん?」


ふりかえった聡は、環がぽっちゃりした手でベッドわきのバスケットから濃紺のシャツを取り上げたのを見た。

一気に、聡の血がひいてゆく。

環は柔らかそうな唇を白くして、濃紺のコットンシャツに目を据えたまま聡を見ずに、つぶやいた。


「このシャツ、音也さんのですよね」

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