第四十九話 においが、消える

『このシャツ、音也さんのですよね』


そう言った藤島環ふじしまたまきの声が、まるで呪いのようにさとしにまとわりついた。

聡は環から目をそらして答える。


「そうだったかな」

「サト兄さんが、このあいだ音也おとやさんから借りていたじゃないですか」

「……そうだな」

よごれものは、洗濯場に置いておけば家政婦さんに洗濯してもらえます。このバスケットには、誰にもれられたくないものだけをいれておくんですよね」


環のおびえた小鹿こじかのような視線が、聡とぶつかった。

環はささやくように尋ねた。


「このシャツ、このままにしておきたかったんですね」


聡は環を見て笑った。もう、笑うしかないと思ったのだ。

環が続ける。


「誰にも、さわられたくなかった」

「ああ」

「洗濯もしたくなかった……?」

が消えるからな」


そう言って聡は手を伸ばし、環の手から濃紺のシャツを取った。それからシャツを手にしたままキングサイズのベッドに腰をおろす。

ぎしっと古いベッドがきしむ。

聡の巨大なキングサイズのベッドにはアイボリー色のアイリッシュリネンがかかっている。シーツの四隅よすみの折りこみはかどがつきすぎて、さわったら切れそうだ。


ベッドメイクは毎朝、聡が自分でやる。

二十七才の男がなんの抵抗もなく家事ができるのは、万事ばんじしつけに厳しかった亡母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさのおかげだ。

軍隊のように完璧に整えられたベッドの上に、聡は無造作に濃紺のシャツをほうりだした。

我ながら、その無作為むさくいさが鼻につく。

環にも分かっているだろう。


聡はベッドに座ったまま、小柄な妹分いもうとぶんを見上げた。

聡が守らねばならない少女。何も知らないままで、この家から出してやる予定の妹がいたましそうな顔で聡を見ていた。

環が、口を開く。


「おとやさんが、好きなんですか」


聡の口元に笑いがにじんだ。


「なあ環ちゃん」

「はい」

「君は、ものの聞き方をしらないな。どうも俺もそうらしい。ってことは、こいつは遺伝か?」

「私とサト兄さんは血がつながっていません。遺伝は、しませんよ」


そうだな、と言って聡は笑った。


「そして俺とおふくろも、血はつながっていない。だとしたら、おふくろの教育のたまものだ。ありがたくない遺産だな――たまちゃん」

「なんでしょう」

「オトには、言わないでくれ」


聡はベッドから立ち上がり、百六十センチに足りない環にそっと笑いかけた。


「いずれ終わる。だから、あいつには知られたくない」


環の中で、何かがグッと大きくふくらんだようだった。

しかし松ヶ峰聡の利口な妹は、そのまま何も言わずにふくらんだものを飲みくだした。

初夏の輝くような夕暮ゆうぐれのなかで、ゆっくりと環が口を開く。


「あさって、東京へお供します」


うん、と言って聡は微笑んだ。


「ありがとう、たすかるよ」

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